キーワード検索

恩地孝四郎(おんち・こうしろう)作品の買取は、絵画骨董買取プロにお任せください。

弊社は親子三代80年の買取実績があります。電話、メール、お手紙で恩地孝四郎買取のご依頼を受け付けています。 スタッフ一同、丁寧な対応を心がけています。
もし恩地孝四郎の作品をお持ちでしたら、ぜひ絵画骨董買取プロにご相談下さい。

恩地孝四郎

おんち・こうしろう
1891(明治24) - 1955(昭和30)
恩地孝四郎

現在の東京都新宿区に生まれる。創作版画の先駆者のひとり。また、日本の抽象絵画の創始者としてその前衛性が高く評価されている。1909年、竹久夢二との親交始まる。1910年、東京美術学校予備科入学。版画家としての活動に先駆けて装幀の道を歩み始め、戦後はさらに新しい版画技術を導入して新たな道を切り開き、幅広い分野で600点の装幀を手掛けている。田中恭吉、藤森静雄らとともに木版画や詩をまとめた雑誌『月映(つくはえ)』は、田中恭吉の死後、1年ほどで終刊になったが、日本の版画史に大きな足跡を残した。1918年、日本創作版画協会の創立に参加。1931年、日本版画協会設立。代表作に『抒情』シリーズなど。萩原朔太郎の「月に吠える」や「北原白秋全集」などの装丁も手掛けた。著書に「本の美術」などがある。

ゆかりの都道府県
活躍した時代

作家紹介

版画だけじゃない
恩地孝四郎の油画

恩地孝四郎といえば、版画作品というイメージが強いですが、油彩作品にも注目すべきところがあります。

父の希望で医者を志し獨逸学協会学校中等部に進みますが、1909年、第一高等学校の受験に失敗。同じころから白馬会原町洋画研究所に通い始めた恩地は、まず油画を通して芸術の世界に入っていったといえます。その後、東京美術学校では洋画を中心に学んでいました。

明治末期から大正前半は、恩地が油彩作品を数多く描いた期間です。自画像や静物が中心でした。

油彩は具象的なものが中心だったものの、外部の対象を捉えて描くことは、抽象表現の創出にも深くつながっていたのでしょう。

創作版画と恩地孝四郎がめざしたもの

創作版画とは、明治の後半ごろから始まった版画の芸術運動のなかで生まれたジャンルです。従来の木版画(浮世絵)は、絵師・彫師・摺師という分業体制で制作していましたが、創作版画ではその3つの役割を作者が全て担いました。“職人”や“伝統”のイメージが強かった版画に、“作家”や“革新”を持ち込むことは大きな転換で、新版画と対立することもあったようです。

恩地孝四郎は、大正期ごろから創作版画を牽引した人物でした。山本鼎らと共に日本創作版画協会、日本版画協会の設立にも参加しています。

恩地孝四郎の驚くべきところは、まだヨーロッパでも登場したばかりだった「抽象表現」を日本にもたらしたことです。しかし、それは単に西洋の模倣ではありませんでした。東京美術学校の学生時代に、詩と版画集となる『月映』を刊行し、そこに掲載された版画作品(「抒情」シリーズなど)からは、のびのびとしたかたちと、にじみや色ムラによる温かみのある色彩という恩地のスタイルが既にみられます。

このように、創作版画は版画が美術の一つになることを目指し、恩地孝四郎をはじめとする作家たちによって「版画=美術」という認知が定着することとなったのです。

抽象のはじまり
『月映』――田中恭吉・藤森静雄との青春

恩地の版画家としての出発点は、1914年(大正3)、田中恭吉・藤森静雄と創刊した詩と版画の同人誌『月映(つくはえ)』です。3人は竹久夢二のもとに集まった仲間でした。はじめは3人だけで回し読みする私輯を6輯つくり、同年9月から洛陽堂より公刊、1915年までに全7輯が世に出ています。

結核に冒され死に向かう田中への思い、日々の暮らしにわきおこる感情。恩地はそれらを、目に見える「もの」の姿ではなく、線と色のかたちに託しました。公刊『月映』に発表した《抒情『あかるい時』》(1915年)は、日本で最初の抽象表現のひとつとされています。田中恭吉は1915年に23歳で世を去り、『月映』もその年に終刊となりますが、萩原朔太郎や北原白秋の共感を得たこの小さな雑誌は、大正期の美術を代表する成果として今も高く評価されています。

その後の恩地は、形態を線で分割するキュビスム風の作品、彫刻刀の彫り跡を生かしたドイツ表現主義風の作品、1920年代にはダダや構成主義に接近した作品と、同時代のヨーロッパの動きに呼応しながら自分の「版」を探り続けました。1927年、帝展が初めて版画を受け入れた年には、恩地の作品も入選しています。

本を美術にした人
600点を超える装幀

恩地のもうひとつの顔が装幀家です。確認できる最初の装幀本は1911年。以後、1955年に亡くなるまでの45年間に手がけた本は、およそ600点にのぼります。

もっとも知られるのは、萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』(1917年)でしょう。病没した田中恭吉が遺した装幀の仕事を恩地が引き継いで完成させたもので、『月映』の友情がそのまま一冊の本になりました。室生犀星『愛の詩集』をはじめ同時代の詩人たちの本を数多く装い、1934年には木版画・写真・活字を組み合わせた詩画集『飛行官能』『海の童話』を刊行しています。本そのものをひとつの美術作品として構想した、日本のブックデザインの先駆者でもありました。晩年の著書『本の美術』(1952年)に、その考えがまとめられています。

恩地にとって装幀と版画は、ともに「版」を通して表現するという点で地続きの仕事だったといえるでしょう。装幀本や詩画集は版画とはまた別の市場で評価されており、初版・函付きで状態のよいものは古書としても人気があります。

戦中から戦後へ
一木会、マルチブロック、そして海を渡った版画

1939年(昭和14)、恩地は陸軍省の嘱託として中国中部に従軍し、帰国後、その印象をまとめた個展を開いています。当サイトでご紹介している《山へ(中国風景)》《中国風景》は、この時期の仕事につらなるものです。同じ年、恩地は自宅で版画研究会「一木会(いちもくかい)」を始めました。関野凖一郎、山口源、のちに駒井哲郎らが集い、会の作品集『一木集』は戦中から戦後にかけて刊行が続きます。戦後の日本版画を担う作家たちが、この集まりから育っていきました。

戦後の恩地は、ベニヤ板や紐、布、落ち葉、貝殻など身のまわりの実物を版として摺り重ねる「マルチブロック」の手法で、《ポエム》《リリック》《フォルム》《コンポジション》《オブジェ》といった連作を次々と発表します。戦時下の閉塞から解き放たれたような、大らかな抽象です。

この時期の作品を熱心に集めたのが、占領期に日本に滞在したアメリカ人たちでした。彼らが持ち帰ったため、戦後作の多くはいま海外にあり、ボストン美術館、ホノルル美術館、大英博物館などが重要作を所蔵しています。1950年代にはサンパウロ・ビエンナーレやニューヨークの抽象美術展にも出品し、1953年には国際版画協会を創立して初代理事長を務めました。1955年6月3日、杉並の自宅で63年の生涯を閉じています。

恩地孝四郎の作品をお持ちの方へ
査定でみるポイント――自摺りか、後摺りか

恩地孝四郎の版画は、同じ図柄でも「いつ、誰が摺ったか」で評価が大きく変わります。

恩地は彫りも摺りも自分で行い、しかも摺りの精緻さより勢いや色のにじみを重んじたため、生前の自摺り(じずり)は一点ごとに表情が違い、点数も限られています。没後には、ご遺族(長男の恩地邦郎氏)や摺師の手による後摺り(あとずり)も制作・流通しており、作品の裏面や余白に「自摺」「後摺」の表示、鉛筆のサイン、印などが記されている場合があります。こうした表示、紙質、刷りの色調、そして来歴(どこから入手したか)が、自摺りかどうかを判断する手がかりになります。

評価の目安としては、①『月映』期から1920年代の初期作、②戦後のマルチブロックによる抽象作の自摺り、③装幀本・詩画集の初版(函・帯つき)が、とくにお問い合わせの多いところです。油彩・素描・水彩も市場に出ることがあり、来歴がはっきりしているものは版画以上に希少です。

恩地作品は『恩地孝四郎版画集 1891-1955』(形象社、1977年)など参照資料も整っています。お手元の作品について「自摺りかどうか分からない」という段階でも、まずは写真をお送りください。摺りの種類の見立てからお伝えします。

恩地孝四郎 略年譜

  • 1891(明治24) 7月2日、東京府南豊島郡淀橋町(現・新宿区)に生まれる。父・轍は和歌山県橋本市の出身
  • 1909(明治42) 竹久夢二と出会い、画家を志す。白馬会原町洋画研究所に通い、田中恭吉・藤森静雄と知り合う
  • 1910(明治43) 東京美術学校予備科に入学(のち中退)
  • 1914(大正3) 田中恭吉・藤森静雄と『月映』を創刊。私輯6輯ののち、9月から公刊
  • 1915(大正4) 公刊『月映』に《抒情『あかるい時』》を発表。田中恭吉死去、『月映』終刊
  • 1917(大正6) 萩原朔太郎『月に吠える』の装幀を完成させる
  • 1918(大正7) 日本創作版画協会の創立に加わる
  • 1927(昭和2) 帝展が初めて版画を受理し、入選
  • 1929(昭和4) 平塚運一・川上澄生・藤森静雄らと『新東京百景』の頒布を始める
  • 1931(昭和6) 日本版画協会の結成に参加、常任委員となる
  • 1934(昭和9) 詩画集『飛行官能』『海の童話』を刊行。パリ装飾美術館の日本現代版画展に出品
  • 1936(昭和11) ジュネーヴ、サンフランシスコの展覧会に出品。以後、欧米各都市を巡回
  • 1939(昭和14) 陸軍省嘱託として中国中部に従軍。自宅で版画研究会「一木会」を始める
  • 1942(昭和17) 写真集『博物志』を刊行
  • 1946(昭和21)頃〜 マルチブロックによる抽象版画の連作を本格化
  • 1952(昭和27) 著書『本の美術』を刊行
  • 1953(昭和28) 国際版画協会を創立、初代理事長
  • 1955(昭和30) 6月3日、杉並区の自宅で死去。享年63
  • 2016(平成28) 東京国立近代美術館・和歌山県立近代美術館で約20年ぶりの大回顧展「恩地孝四郎展」

まずは写真一枚で構いません。お気軽にお問い合わせください。

ご実家の片付けや遺品整理で見つかった大量の骨董品。「何が価値あるものか分からない」「ゴミとして捨てるのは忍びない」と、そのままにしていませんか?

埃を被ったままの掛軸や、作者不明の古い器の中に、実は貴重な宝物が眠っているかもしれません。

骨董品買取の専門家なら、一つひとつ丁寧に査定し、思い出ごと次の方へお繋ぎします。大量の査定も大歓迎です。

絵画骨董買取プロ・秋華洞がお役に立てること

私ども秋華洞は、買取専門業者ではなく、実際に作品を扱い、次の所蔵者へ橋渡しをしてきた美術商です。

  • 売却を迷っている
  • 相続整理の途中で判断材料がほしい
  • 今すぐ売る予定はないが、価値を知っておきたい

そんなご相談も多く寄せられます。

作品の状態や内容によって評価は大きく異なるため、
まずは画像を拝見し、どのような位置づけになるかをお伝えすることが可能です。

3つの“問い合わせる理由”

  • 理由1:判断が早い……写真(全体/サイン周り/箱)だけで、まずは「評価の方向性」をお伝えします

  • 理由2:無理に売らせない……「売るか未定」「相続で整理中」「家族と相談中」でもOK

  • 理由3:評価の根拠を言語化……作品タイプ(日本画・素描・版画等)と状態・来歴を分けて説明
    まずは「価値があるかどうか」だけでも結構です。
    査定は無料/秘密厳守。銀座への持込・出張・宅配・LINE、最も負担の少ない方法をご案内します。

創業から親子四代、東京・銀座で美術品と向き合い続けてきた私たち「秋華洞」には、選ばれる理由があります。

  1. 「カタログ・名品展」での直接販売力 私たちは単なる転売業者ではありません。自社発行のカタログ『秋華洞カタログ』や展覧会を通じ、作品を熱望する愛好家へ直接お届けしています。中間コストを省けるからこそ、納得の買取価格を提示できます。

  2. 真贋・鑑定の複雑な手続きもサポート 「鑑定証がない」「箱が見当たらない」といった場合でもご安心ください。長年の経験に基づき、適切な鑑定手続きの代行やアドバイスも可能です。

  3. 一点から、秘密厳守で対応します 遺品整理やコレクションの整理など、どのようなご事情でも秘密厳守で対応いたします。無理な営業は一切ございません。

「大切にしてきた作品だから、価値の分かる人に託したい」 その想いに、銀座の老舗画廊が誠心誠意お応えします。

恩地孝四郎のお問い合わせ/ご相談


恩地孝四郎の作品

特集


浮世絵師・版画家の取扱作家



買取サービス

フリーダイヤル無料電話相談
査定フォーム査定フォーム
LINE査定LINE査定