銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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「富裕層マーケティング」雑誌元幹部逮捕

   

「富裕層マーケティング」の某雑誌の幹部が逮捕された。

※この雑誌は経営主体を変えて継続しているので、関係者に配慮し、固有名詞を省く。なぜ逮捕されたか、ということについては、この記事では主として論じない。(2009/12/1)。
最近、富裕層マーケの言葉が書店に躍り、当然自分も興味を持っていた。ただし、問題なのは、「富裕層マーケ」をうたっているところに、果たして「富裕層」が乗るか、ということである。私どもの商品もまさに伝統的に「富裕層」に依存してきたのだけれど、「資産一億円以上」みたいな括りに、広告を載せる側には意味がある言葉なんだけど、お客様にはあまり意味がない。

だって、お金持ちなんて、いうのは「属性」というよりも「状態」である。まあ例えばヨーロッパでも「貴族」がいるけれど、時代が変われば「富裕」とは限らない。ましてや企業家なんて、ホームレスが一夜明けて大金持ち、そのまた反対も、おおげさにいえば珍しくない。

こないだの「伝統」と同じだけれど、人間に常態というものはないのだ。だから、「お金持ちクラブ」と言われても、じゃあカネがなくなりゃあ追い出されるのか、金の切れ目が縁の切れ目か、ということになる。商売上のドライなつきあいなら、まだしも仕方ないけれど、それが友達やましてや夫婦なら、ずいぶん寂しい限りである。昔「三高」、身長、お金、学歴なんていうのが結婚の条件としていわれたもんだが、そんなことを本気で信じている女がいるとしたら馬鹿である。お金は必要だけど、力を合わせて稼いでこそ楽しいんでしょう。贅沢が出来なきゃだめな夫というなら、自分が老いてあるいは病気になって魅力が亡くなったら、惚けたら、ブスになったら、さっさと捨てられても構わない、と割きらなければいけない。そんな薄情な世界はゴメンである。

話がそれたけど、富裕層マーケは大事だけど、それが看板で人を呼ぶ、というのは切り口として微妙に違うんじゃないか、と思うのである。ま、微妙な話だけどね。

※以下追記(2009/12/1)
この記事、後から見て、趣旨がわかりにくいかも。ブログは半分日記として好きに書いているとはいえ。この雑誌については、ウチに営業にも来ていたし、興味もあった。けれどもこの「雑誌」が何か本質的な「贅沢」に対する良い意味での賛美と批評性からずれている気がして、コミットするのを避けていた。そうしたところにこの逮捕劇でなにをかいわんや、と思いこの記事を書いた。ん?まだわかりにくいかも。
富裕層向け、とか資産一億円以上、とか表層的なことよりも、魯山人の「食」に対する厳しさや、大観の「堂々男子は死んでも良い」などの貧乏とか金持ちとかそーいった事を越えた「価値」感を大事にする硬派かつセレブ的な雑誌があると面白い、と思うのですけど。なんか日本の「富裕層」メディアって貧乏人か成金が作っている哀しさが出てしまって困るのです。「富裕層」というより「本当に良いもの、贅沢なもの」を節度を持って紹介する、とか少しコンセプトをずらした方が本当に「欲しい」雑誌になると思うんだけど。たとえばさ、ミシュランとかのグルメガイドの批評性を全ての科目(旅行、グルメ、美術品、金融、演劇、茶道、海外情報)にエッジを立てるだけでいいのではないか。

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