銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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集団的自衛権とタンカ

   

集団的自衛権とタンカ

私は美術商である。骨董商である。なので、業者の市場というものに毎日のように顔を出す。
そこでは、美術と分類されるあらゆる物が出品される。

ごくたまにだが、「タンカ」というものが出品される。おそらくチベットの仏様を描いた布切れだ。
そんなに高いものでもないが、何かしらエキゾチックな信仰の香りを含んでいて魅力がある。だが、まだ買ったことがない。
買っても良いのだが、心よぎるものがある。

それは勿論中国のチベット侵攻である。彼らは「内政問題」と強弁するが、ダライ・ラマを追い出した武力侵攻であることは世界の誰もが知っている。かつては大事な仏教=精神の温存地であったその国を、支配下に置く事にどれだけの合理的理由があったのかわからないし、当時の共産党の本音あるいは内在的論理ってやつを聞いてみたいものだが、この論ではそこが肝ではない。

ともかくもチベットは主権を失い、寺は荒らされた。市場に出てくるタンカもあるいはそのドサクサで出てきたものかもしれない。合法的に売られたものかもしれないが、その裂地には暴力にさらされたチベット仏教の悲しみが染み付いているような気がしてしまう。

その思いは、かつて坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちが、上海を訪れた時に、英国に支配され阿片に浸りきって主体性を喪ってしまった中国人を見た時の危機感とも似ている。

備えがなければ「ヤラレテ」しまうのだ。幕府にまかせていては、植民地にされてしまう。その危機感が、ペリー来航で鎖国の夢から解かれた日本人が明治維新を成し遂げたことは周知の事実だ。

今、集団的自衛権の議論がある。やれ憲法改正で正面から臨むべきだ、いや中国の脅威に備えるには、憲法論議の熟成を待っていられない、そもそも集団的自衛権とな何かわかっているのか君たち(石破さん)、と応酬がかまびすしい。

実は「国」と「軍」というのは切っても切れない関係がある。あるのだが、日本人にはそうした意識が希薄である。もともと日本のなかで「国」とは殿様をトップにした「藩」であって、「日本」なんてのは、ほぼ、イコール「世界」であった。その状態で徳川250年の「平和」があったのである。もう軍事なんてものは精神論の彼方に霧散してしまった時代に、まさに「目を覚ます」役割を演じたのがペリーであり、欧米列強であった。

血が、国を作る、国民の血が、民の国家を作る、という意識が最初に目覚めたのは、長州の奇兵隊だったかもしれない。それまでの職業軍人たるサムライでは間に合わないということで、農民から兵を募ったのが高杉晋作が組織した「奇兵隊」であった。大分県(豊後)日田の広瀬淡窓に学んだ大村益次郎という天才的軍師の智恵も得て、奇兵隊は徳川軍を破り、日本の歴史を書き換える。のちの明治国家につながる国民皆兵と天皇のもとでの「民の国家」の思想の原型ともなるのがこの奇妙な軍隊だったと思える。

しかし、現在の日本人が軍隊のお陰で日本がある、と実感しているかといえば怪しい。「軍隊」があった「おかげ」で、南の島の「玉砕」、沖縄の「ひめゆり」の悲劇、広島の原爆、東京大空襲、無条件降伏、があった、とさえ思っているきらいもある。あの戦争で硫黄島で最後まで米国の前線を食い止めた男たちの思い、馬鹿げていることがわかりながらも特攻で命を喪った男たちの思いは、無駄死にだったのだろうか。私はそうは思わないけれども、世間ではあるいはそういうことになっているのかもしれない。

思えば、日本人は常に「外圧」に押されて右往左往してばかりのこの200年であった。海に守られ「神風」にさえ守られた「天皇」の国、ニッポン。ほっといてくれたら幸せだったのに、世界は誰もほっておいてはくれない。「国」とか「軍」ということもできれば考えないでいたかったのに、考えないといけなくなった。

「国」は血で作る、という考え方は、欧米では一般的かもしれない。アメリカは先住民の土地を武力で奪い、イギリスとは戦争で戦って「独立」した。ヨーロッパの国境線はしじゅう移動するが、それこそ千年単位の小競り合いの結果が今の国境線だ。イスラエルはまさに血の国家だ
。ある意味、ヒトラーが作った国ともいえる。ナチスが行った苛烈なユダヤの虐殺が、ユダヤ国家への切ない希求となり、まさに血で血を洗う中東戦争でなんと20世紀に地図上に出現した国家だ。

スイスは、永世中立だけど、国民みながいざとなれば国を守り、万が一占領されたら焦土作戦で敵に利益を与えないのだそうだ。なんとなく、平和があるような気がしているらしい一部の日本人とは大きな違いがあるようだ。

「軍」と「国」、「国」と「国民」の関係を私たち「国民」が考えなおして、私たちは21世紀、22世紀に、どのような日本を残したいのか。維新でも敗戦でも積み残した「問い」を今もつきつけられているのが今の状態だ。中国さんの脅し(尖閣)とアメリカさんの脅し(TPP)は、ある意味キッカケにすぎない。日本人、どうしたらよいのか?

この問題は、いくつかの観点があるので、列挙してみる。

(1)国家、国民、国軍の関係
(2)先の大戦の評価
(3)今の状況の評価
(4)何を守るのか

(1)国家、国民、国軍の関係
 国軍については、ここまでで、なんとなく、書いた。他国の例について。
日本については、「血」が国家を作る、という考え方が定着していない。もう、2000年も前から、みずほの国ニッポンあるのだからして。なんとなく、国というものはもう無条件に存在して、軍隊があろうがなかろうが、日米安保があろうがなかろうが、昔からあるのだから、未来永劫あるに決まってるじゃない、お雑煮も、日本語も、キャバクラも、山手線も、プロ野球も、永平寺も、伊勢神宮も、あーるに決まってるじゃない、なに心配してるの?いいから合コンいこっ、というのが日本人の意識かもしれない。そんなことないか。
しかし、それは、間違ってはいませんかね。と私は思う。民主主義っていうのも、気楽なもんでもないんでないかね、とも思いますな。

(2)先の大戦の評価

大東亜戦争とか太平洋戦争とかいろいろ呼び方のある大戦です。さて、戦前の日本軍と政府が愚かであった、軍国主義であった、というのが一般的な認識であるけれども、さて、昔は愚かで今は賢くなったんですかね、ということと、軍だけがアホだったんですかね、というのがいつも疑問に思うことである。(前にも似たような事を書いたが。)

今、あの戦争の顛末を知っている一人の人物、それはあなたかもしれないし、私かもしれないが、ともかくタイムスリップして100年前に行くとする。適切なる指導を出来るかといえば、マア無理であろう。では100人ではどうだろう。ある日突然、銀座4丁目の交差点で信号待ちしている100人が、スカッと意識が100年前に飛ぶ。そしたら日本は変わっただろうか。いや今の一億人の日本人がある日突然、100年前の日本人に全員乗り移ったら、日本は今の体たらくを逃れていただろうか。

中国の挑発に応じず、国民党軍を深追いせず、張作霖爆殺事件なんてやらず、満州国なんて作らず、ABCD包囲網にもめげず、ハル・ノートも笑って交わし、真珠湾を攻めようなんて考えず、台湾も半島もずっと仲良くいられただろうか。

たぶん未来を知っていたら、それはかなりうまくやっていただろうが、しかし、また別の困難もあっただろう。アメリカもヨーロッパも中国もソ連も、別段日本がどんなにイジラしくニコニコしていたとて、ああそうですかと手を緩めたとは考えにくい。

今のニッポンの方向性を考えるのに、必要なのは、プリンシプルじゃあないかと思う。どんな時代であれ、状況であれ通用する一般原則だ。かつての軍はよくなかった、だから自衛隊ならいいだろう、平和憲法ならいいだろう。そうだろうか。国家とはなにか、国民とはなにか、軍都はなにか、も少し考えてみる必要はないか。

かつての軍や戦争が間違っていた、と欧米の尻馬(東京裁判)に乗って言うことは簡単である。では、何がどう間違っていたのか、精緻に答えられる日本人は少ないだろう。

いっぽう、正しい面はなかったのか。欧米によりアジアの植民地支配の時代を終わらせたのは事実であろう。日本とアメリカがお互いこれだけ理解が進んだのも、「敵」として研究し合った成果だというのは皮肉だけれども真実でもあるだろう。

私たちがバックツーザフューチャーしたとしたらどのように歴史を正せたのか、「正しく」振る舞うとはどのようなことなのか、SFでも論文でもいいが考えてみたいテーマである。

もちろん、戦前の日本軍が間違っていると思う所はいくつかある。日本軍、ということは日本人一般も同じ穴のムジナかもしれない。すなわち、人命軽視。場当たり的作戦。適当な人事。無責任。精神主義。派閥争い。イジメ。もしこのいずれもなかったとしたら、アメリカに勝ってしまったかもしれない。

しかしもし勝っていたら、日本はよい国になれたのか?パックスジャパニーナ(日本による平和)は世界を平和にしたのか?あまり自信がありませんな。

ところで、この戦前の日本軍のバカっぷりは、今の原発政策と瓜二つである。どうですか?この問題は本当にクリアできたのか、ここは悩ましい。

(3)今の状況の評価
中国の脅威は怖いよね。ベトナムも大変だ。

けれど、本当の問題は、日本が外交を自分で考える、という習慣がないことだ。

別の言葉でいえば、日本には、自由がないと思う。アメリカさんに、ものをいう自由だ。

ビン・ラディン暗殺やかつてのイラク戦争には、「アメリカ」の大義はあったけど、それは最強国の論理であった。だけど、日本政府は、そーいう先鋭的な米国政府に、楯突くことはできない。だって、全面的に守ってもらってるんだもん。経済的な自立がなければ、個人の自由がないのと同様、軍事的な自立がなければ、国家の自由もないと思う。今は仕方ない。しかし、未来永劫これが理想かといえば、そうでもないだろう。中国と北朝鮮は軍事的には脅威である。しかし何より、発言と思想の自由は、経済的軍事的自立から、という根本がなければね。

アメリカの力が弱まり、中国が台頭する中で、日本は、独自の思考と行動を内外から期待されると思うよ。準備出来てるのかね。私たちは。できてません。できれば、何も考えないでいたい? そうかもしれない。でもそれはアメリカという国にぶらさがる「ニート」になることでもある。いつまでニートを許してくれるのかな。もう許してくれてませんね。関係国に、丁寧に向き合って、文武両方で鍛錬を怠らない、そういう国にはなれないものでしょうかね。

(4)何を守るのか
先の大戦では、「国体」を守ろうとした。国体???日本の文化、精神。具体的には、天皇であったと思う。それはそれで大事である。それでよかった。しかし、今後守るべきはそうした日本の国柄プラス、「自由」だと思う。その意味では、自民党の憲法改正案は、筋が悪い。今の憲法の良さは、自由、平等、公正、という思想が一応あることだ。アメリカは自分でもできないことを日本にやらせようとした。日本人はいじらしく、やろうと思った。しかし、九条は永遠の矛盾を抱える。陸海空軍その他戦力は、これを保持しない。保持してるし。前項の目的を達成する手段としては、っていきなり憲法の中で憲法の解釈改憲しているという離れ業。もう国民としては人間不信になるしかないよな。

集団的自衛でも国防軍でもなんでも名前はもうどうでもよろしいが、たまさか「主権」というものをアメリカ様に与えていただいた私達国民は「何」を守りたいのか。天皇制か和をもって尊しとなすという文化なのか何なのか。いや勿論全部なんだけど。でも「政府」を守るのではないだろうし、官僚様を守るのでもないだろう。抽象的なようだけど、守るものを間違えると、守っているつもりで破壊していた、ということにもなりかねない。

雑感を順不同で書いたけど、安倍晋三さんに現状整理はまかせて、100年後の未来像は、国民が自ら議論したいもんである。だって一党独裁でないもんね。誰にでも意見が言える国なんですもの。

私の意見。自由と精神の尊厳、そして財産を守るのにはコストがかかる。どの国にいようが。だから軍は必要と思う。シューダンテキジエーケンなんてのは当たり前として。けど、たちのよい「軍」とか「国」について、まだ私たち日本人は経験も議論も少ない。自民党に正解が出せるとも思わない。このテーマは、100年の計。国民としては、丁寧に、考えましょ。政治家だけに、まかしとく問題でも、ないでしょ。

タンカはいつか、僕も仕入れるかもしれない。密教の国の哀しみを、複雑で残酷な世界を生き抜く糧にして、なんてなのは今の小理屈だけど、自分なりに気持ちの整理をつけたら。国の形、日本人はしばらく悩むだろうけど、日本の国はやはり好きだから、よいことろが十分残るようにするために、と考えたいもんです。

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