日高先生と原崇浩とリアリズムと
2025/06/01
はじめに
先日、会場で販売する原崇浩個展パンフの文章を書き終えました。これまではそのような文章をネットで先出しすることもありましたが、今回は少し違うと思いましたので、今日は別のことを書こうと思います。
カタログの文章では、映画『かくかくしかじか』に登場する日高先生と原崇浩先生の共通点と相違点を挙げながら、リアリズム絵画について論じました。
ただ、本当のところでは、日高先生の側(モデルとなった日岡先生)も、原先生も、そうやって勝手に重ねて語られるのは、少し迷惑かもしれません。原作の東村アキコさんも、そのような言い方はしていませんし、これはあくまで私が原さんを紹介するひとつの「きっかけ」として話を作っているに過ぎません。
それに、日高先生の存在も、東村アキコさんも、関係者も認めている大泉洋のそっくりな演技も、もしかしたら日岡先生ご本人が見たら、「いや、そういうつもりじゃなかったよ」と思うかもしれません。実際のところはわかりませんが、それはあくまで東村さんや大泉さんの解釈であり、ある種の共通理解だったのかもしれません。
つまり、日岡芸術とはまた別のなにか、だったのかもしれません。
私が思う原 崇浩さんの世界も、私の中の「リアリズム」と重ねて見ている部分があると思います。
ただ、映画のなかで日高先生が体現していたのは、「絵というものは本気で取り組んでこそ成立するものである」ということです。良い・悪いで言えば、「下手か、そうでないか」という違いは明らかに存在し、それはまず乗り越えるべきものです。そして原 崇浩さんの世界も、間違いなくその延長線上にあります。
その先に何があるのか、という問いは「うまい・うまくない」という次元を超えた話であり、そこから先がリアリズム論の本題となります。「上手い先に、何を見るのか」という問いです。
ジャージを着て竹刀を持ち、生徒にときに厳しく、ときに優しく接するという共通点はふたりにありますが、真剣な芸術論はまた別のものです。
リアリズムの立ち位置
本当は、「リアリズムなんて、絵画のなかで意味があるのか?」という問いも当然あると思います。たとえば、白髪一雄の“足の芸術”、松谷武判のエナメルを溶かした表現、山口長男の色面による構成。絵画はある時期以降、無意識や原初的な感覚に触れようとする方向に進みました。そして、そこにもう一度野田弘志や森本草介、ついで諏訪さんなどの写実が立ち現れます。
まだ生きていたか写実。と言われようとなんと言われようと、現代において写実やリアリズムの方法論を取ることには意味があります。それは、人間が「ものを捉えようとする衝動」としての、感性の動きにほかなりません。
リアリズムへの衝動は、人間の「生の感情」として、誰もが忘れることのないものです。しかし、現代のそれは近世のそれとは、いくつかの違いがあるのも確かです。先ほども触れたように、絵画が人間の世界に与える影響をいったん分解して再構築した抽象絵画や、リアリズム以外のすべての表現が発展し尽くした後に、リアリズムがどのような立ち位置にあるのか。そして、写真があふれる現代において、リアリズム絵画はどう存在するのか。
たとえばロペスの作品には、そうした疑問をいとも簡単に覆すような、絵画としての圧倒的な強さがあります。ただし、それは誰にでもできるわけではありません。「写真みたい」な絵が、ますます“写真っぽく”見えてしまうという現象とは逆で、「写真みたい」に見えながらも、そこに人間の存在が刻まれている――そのような、リアリズムの実相があります。
原さんが考えるリアリズム、日岡先生が信じたリアリズム、東村アキコさんが受け取ったリアリズム――それらは、細かく見ていけば異なる方向性を持っているはずです。絵画世界に対するすれ違いは、原作のなかの師弟のすれ違いでもあり、東村さんと原さんの間の、絵画をめぐる感覚のズレでもあるかもしれません。
この映画は、東村アキコさんにとって自身の半生をまとめた作品であると同時に、漫画や映画、絵画といった映像表現に対する新たな思考や行動を促す、一つの出発点にもなるのではないでしょうか。
絵画・映画・漫画が交錯する先
三者の視界が異なるからこそ生まれるドラマもまた一つのドラマであり、その広がりは漫画・映画・絵画それぞれに波及する可能性があると思います。
ちなみに私にとっても、絵画・映画・漫画という三つのメディアが交錯することには特別な意味があります。これらは私自身にとっても重要な表現手段であり、また発信者でも受け手でもある可能性を持っているからです。そうした視点で見れば、東村さんも原さんも、非常に優れた「絵画設計の技術者」であり、感性とユーモアと本質をとらえる率直さを持つ、極めてプロフェッショナルな表現者です。東村さんの漫画家としての存在感にも、きっと日岡先生の影響が強くあるのでしょう。
日岡先生はすでに亡くなりましたが、大泉洋さんの演技によってスクリーンに蘇り、宮崎の生徒たちだけでなく、私たちすべての観客や読者の人生にも影響を与えてくれます。それは芸術の世界に限った話ではなく、人生そのものに関わることであり、同時に私たちの絵画世界にも、リアリズムの意味を問い直す機会を与えてくれます。
それは理屈ではなく、ただ「真っ当」なものとして。たとえば、ある壮年の入門者に、ひたすらティッシュを描かせ続けたあの判断のように。
日高先生が東村アキコさんの人生に何かをもたらしたように、この映画も私たちに何かをもたらしてくれるのではないでしょうか。そして、原崇浩さんの世界も、リアリズムがいま持つ意味を再考させてくれるのだと思います。
10年後、50年後に、このドラマがどんな結末を迎えているのか。私はその未来を、見てみたい。そしてどのドラマをもっと広げたい、と思っています。
展覧会情報
原崇浩 個展『描くということ』
2025年6月13日(金)〜21日(土)
10:00〜18:00
会期中無休 入場無料
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