銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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沖綾乃個展「糸を縒る(いとをよる)」によせて

   

沖綾乃個展「糸を縒る」は、沖綾乃という作家にとっても、私ども秋華洞にとっても「家族」を真正面から扱う、ひとつの節目になる展覧会だと思います。


作家について──美人画の系譜からにじみ出る「和製シーレ」

沖綾乃(1994年栃木県生まれ、武蔵野美術大学日本画学科卒)(カフェ)
いわゆる「美人画」の系譜に寄り添いながら、身体と感情の生々しさを画面に呼び込んできた作家です。

秋華洞のプロフィールでは、

  • 「美人画」に寄り添う世界が、深いエロティシズムの視線へ私たちをいざなうこと
  • コーヒーをひっくり返したような乱暴な着彩の中に、男を受け入れる女たちが官能のほとりに立ち、さらに強いものを求めてこちらを見つめていること
  • 日本の人物画シーンにおいて、その秘められた激しさが特異であり、「和製エゴン・シーレ」とも呼ぶべき官能性を持つこと
  • (美術品販売|東京銀座ぎゃらりい秋華洞)

と指摘しました。

実際、激しく引かれた線と、にじみ・飛沫のような絵具の痕跡が同居する画面は、モデルの姿を写すというより「欲望と孤独の気配」を可視化するものと言えます。若い女性のしなやかな身体は決して記号的な「美」にはとどまらず、戸惑い、気だるさ、諦めといった複雑な感情を含んだ「人間そのもの」として立ち現れます。

これまでの個展「37.2℃の肌」(GALLERY SCENA., 2024)(GALLERY SCENA. by SHUKADO)や、各地のグループ展・アートフェアを通じて、沖は「現代の美人画家」の中でも、とりわけ将来性を期待される存在として位置づけられてきました。(美術品販売|東京銀座ぎゃらりい秋華洞)


作品世界──身体、室内、濃密な空気

これまでの作品を振り返ると、いくつかの特徴が見えてきます。

  • 身体のクローズアップ
    うなじ、肩、手先、寝そべる姿など、身体の一部を切り取ることで、見る者を画面ぎりぎりまで引き寄せる視点が多い。
  • 室内という「殻」
    バスルーム、ベッド、窓辺、クローゼット、食卓など、閉じた室内空間がしばしば舞台となり、女性たちはその殻の中で自分自身や他者との関係を問い直しているように見えます。
  • 線と染みの緊張
    日本画の素養に裏打ちされた細い線描と、「コーヒーをひっくり返したような乱暴な着彩」 がせめぎ合うことで、静かな画面の中に感情のざわめきが宿ります。

    (美術品販売|東京銀座ぎゃらりい秋華洞)

官能性と言っても、それは露骨な性的描写ではなく、「人と人が触れあうこと」「誰かを欲すること」の根源的な欲望を描こうとする姿勢に近い。その意味で、沖の絵に出てくる女性たちは、単なる鑑賞の対象ではなく、こちら側と視線を交わしてくる「もう一人の私たち」です。


本展「糸を縒る(いとをよる)」──家族というテーマへのシフト

今回の個展は、作家自身のステートメントが示すように、明確に「家族関係」をテーマとしています。

育った環境も考え方も違う誰かをパートナーとして選び、いろいろなことに折り合いをつけながら生活を共に営んでいくことは、長さの違う糸を縒り合わせるように、地道で淡々とした努力の積み重ねなのだと愛おしく思う。(美術品販売|東京銀座ぎゃらりい秋華洞)

ここで興味深いのは、「恋愛」ではなく、あくまで生活を共にするパートナーシップ、つまり家族としての共存を語っている点です。

糸を縒るという比喩は、

  • 互いに異なる素材・長さ・強度を持った糸同士が
  • 時にきしみながらも、絡まり合い、一本の太い糸になっていく

というプロセスを指し示します。それは、沖がこれまで描いてきた「刹那的な官能」から一歩進んで、「長く続いていく関係の温度」を描こうとする試みとも読めます。

画面には、おそらく以下のようなモチーフが現れることでしょう(インスタグラム上の制作過程からも示唆されます)。(Ayano OKI Instagram)

今回の沖綾乃の展覧会は、公的な儀礼と最も私的な身体の場面が、同じ壁面に並置されることで独特の空間を生むことになるでしょう。
・結婚式の円卓や祝宴の席と、寝室での密やかな触れ合い、
・食卓の痕跡や手が交わる瞬間
・日々の食事を挟んだ相手とのかかわり

ここで沖が採用しているのは、
単に記録的に事象を提示する態度でも、
感傷的に家族を讃える主題でもない。
むしろ、

誰もが共有しながら語ることを避けてきた物語を、
 絵画というかたちで語り直す

と言えるでしょう。

公式と私的、祝祭と日常、身体と社会、
その断絶をなだらかに溶かしながら、
「これはあなたにも起こりうる物語だ」と
静かに観者を巻き込んでいく。

その意味で沖綾乃の絵画は、
登場人物の顔を描かずとも、
誰もが自分自身や家族を投影できる “小説” のように読める絵画です。

そこで描かれる「家族」は、理想化された幸福なイメージではなく、おそらくは不安や寂しさ、すれ違いも含めた「一緒に生きることの手触り」として立ち上がるはずです。


美人画から「生活と愛の画家」へ

本展で期待されるのは、沖綾乃が「美人画」や「官能」という枠組みを踏まえつつ、それを家族というより長期的な関係性の物語へ拡張できるかどうかです。

  • これまで培ってきた、身体表現の鋭さと絵具の奔放さ
  • 日常の一瞬を切り取る構図のうまさ
  • 視線の交差によって、鑑賞者を画面に巻き込む力

これらが「家族」という主題と結びついたとき、単なる「家庭の情景」ではない、現代的な親密さの肖像が現れるでしょう。

すでに「和製エゴン・シーレ」と評されるような官能性を持ちながら、シーレのような絶望ではなく「日本らしい楽天的な幸福への希求」を孕んでいるとされる沖のまなざしは、家族という題材を通じて、より肯定的で複層的な方向へ向かうはずです。
秋華洞/SCENAでのこれまでの個展・二人展の蓄積もふまえると、本展は「美人画家」から「生活と愛の画家」への転換点として位置づけられるでしょう。(GALLERY SCENA. by SHUKADO)


観客へのメッセージとして

会期:2025年12月12日(金)〜20日(土)
会場:ぎゃらりい秋華洞(10:00〜18:00/会期中無休・入場無料、Xmasアートフェスタ参加企画)( 沖綾乃個展「糸を縒る」)

来場者が体験するのは、おそらく次のような時間です。

  • 小さな画面の中に、触れあう手や、寄り添う身体、ささやかな生活の断片が、濃密な空気とともに閉じ込められている。
  • 一見静かな室内シーンの奥から、言葉にならない感情のざわめきが、線や染みとして立ち上がってくる。
  • 観る者それぞれが、自分自身の家族やパートナーとの記憶をどこか呼び起こされる。

「糸を縒る」ように、他者と共に生きることの面倒くささと愛おしさ。その両方を抱きしめるような、静かで熱のある個展になるはずです。

この展覧会は、単に若手作家の新作発表という枠を超え、「家族」というテーマを通じて、沖綾乃という作家がどこまで感情の深部に踏み込めるかを示す、重要な一歩になるでしょう。

沖綾乃が描く手や食卓や寝室は、あなたの家族史といつの間にか重なっていく。
ぜひ会場で、その瞬間が訪れる体験をしてほしいと思います。


「食卓」卒業制作から今次の作品について

今回大型作品として展覧会に提示されるのは次の作品です。

沖 綾乃 “初節句”
15F 53.0×65.2cm
和紙、岩絵具|額装

本作は彼女が卒業制作として提出した作品「食卓」とダイレクトに繋がる作品だと考えます。

日本画、岩絵具/和紙/写真コラージュ、200×270cm

武蔵野美術大学 卒業制作優秀作品集
テーマは「食卓を囲む家族」。作家自身は、以下のように述べています:

「私が彼らを描いている間も、彼らは生活を送っている。服も料理もいつも同じであるはずはないし、物だって動かしたり片付けたりしてしまう。静物画のモチーフを組むように、それらを固定することはできないのだ。ドローイングや写真をコラージュしたり剥がすことを繰り返すことによって、家族の生活の痕跡を表現したいと思った。」

つまり、「食卓=固定された静的対象」としてではなく、「動き、変化し、時間の経過とともに変容する“生活の痕跡”」をとらえようとしたものです。


教員による論評 ― 断片とリアリティの共振

この卒業制作に対して、担当教員(当時日本画学科教授の 山本直彰先生)は、以下のように評価しています:

「食卓に置かれた事物も、周辺に座す家族も、それぞれが途切れ途切れである。しかし、その断片たちは微妙に振動しながら存在のリアリティーを奏でる。ところどころに生じたすき間は、作者が物質感の強い粗い岩絵具とコラージュで埋めて行く。その作業で壊れかけていた画面の調和が保たれるのだ。実に巧みである。観る者は、そうした時のかけらを拾い集めながら、忘れかけていた日常をつなぎ合わせてみたくなる。そしてふと作者のことを思う。作画技術の巧みさと、生きる上での巧みさが一致しないのが、画家の悲しい宿命であり誇りでもあるのだと。」

この論評は非常に示唆的で、次のようなポイントを含んでいます:

  • 家族や食卓の「断片性」―― 一瞬一瞬しか固定できない、常に変化する生活のリアルをきちんと捉えている。
  • 物質としての画材(岩絵具、和紙、コラージュ、写真)を通じて、そのリアリティ/存在感を画面に刻み込もうとした技術性への賛辞。
  • 断片や隙間を補いながらも、「調和を破りかけた瞬間」を残すことで、鑑賞者に「日常を再構築したい」という衝動を喚起させる構成。
  • そしてメタ的に、「画家としての存在意味」―― 描くという行為と、生活そのものの“不完全さ”“流動性”とのギャップを引き受けるという覚悟と誇り。

卒業制作と現在の「家族」をめぐる作家の拡張

さて、今回の個展「糸を縒る」でテーマになっている「家族/生活の継続性」は、卒業制作「食卓」と明確な連続性を持つものであり、かつ深化でもあるように思います。

  • 卒業制作では、「家族」の一瞬の状態 ― 食卓を囲む時間 ― を断片としてとらえ、その「痕跡」にまつわる儚さやリアルを描く試みでした。
  • それに対して「糸を縒る」では、「継続する生活」「変化しながらも絡み合う関係」そのものを比喩として引き受けようとしている。断片ではなく、時間の流れと重なり合う複数の糸 ― 人と人、時間と記憶 ― を描こうとしているように思えるのです。

つまり、卒業制作で見せた「断片から生まれるリアリティの震え」を基盤としつつ、それを「継続」「関係性」「時間の経過」という概念へ拡張するという営み。卒業制作が「家族という場面を切り取る」なら、「糸を縒る」は「家族という物語を紡ぎ直す」―― そんな大きな飛躍を感じさせます。


■《初節句》──生活の断片が、鑑賞者を“席へ招く”物語へ変わった

沖綾乃が卒業制作で提示し、教授が評価したのは
断片の振動が生活のリアリティを生むという発想でした。
それは、整った宴ではなく
“散らかったまま続いていく時間”の描写でした。

《初節句》は、その方法の成熟形です。

食器の乱れ、手の動き、抱かれた幼子──
儀式としての完成図は描かれず、
むしろ“生きている最中”だけが残されている。

しかしこの作品の核心は、
沖が画面の中心から顔や視線を曖昧にし、席に空白を残したことにあります。

その空白は、

「この卓に、あなたも座っていたのでは?」

と問いかける入口になっている。

卒制が描いた生活の断片は
今作では
鑑賞者の記憶と重ねられる余地へと変化した。

つまり《初節句》は
家族を描く絵でありながら、

自分の家族の記憶
自分が参加した食卓の記憶

を呼び覚まし、
見る者をその席に参加させる絵になっています。

ここにこそ、前作の評価が現実化したと言える。

断片は振動し、
生活の痕跡は物語となり、
いまや鑑賞者自身をその時間の一部として抱き込む力を獲得した。

《初節句》は、
沖綾乃が「家族」を描き始めた節目であると同時に、
観る者を家族の記憶へ招き入れる最初の作品なのです。


あらためて展覧会へのご案内

会期:2025年12月12日(金)〜20日(土)
会場:ぎゃらりい秋華洞(10:00〜18:00/会期中無休・入場無料、Xmasアートフェスタ参加企画)( 沖綾乃個展「糸を縒る」)

沖綾乃が描く絵画世界は、あなた自身の家族史と重なっていく・・・ぜひ会場で、その瞬間が訪れる体験をしてほしいと思います。

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