銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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お客様来訪、月刊美術の感動

      2016/07/08

ご購入のお客様がお支払いにご来訪。

お若いが(私と同じくらい)、非常に美術に造詣が深い方。こういうお客様と美術の世界を作っていくのだと思う。

 

「抽象は認めるか」という話になる。先月号の「美術の窓」で、山下氏も述べているが、絵は、実は描いた時点で、すでに抽象画である。だから、そのことを理づめでことさら追い詰めていくと(とくに写真、映画があるという状況の中で独自性を追求していくと)、純粋抽象となっていく。お客様は、だけど「認めない」という。

 

 

歴史的な役割、というのはあったと思うし、今なお、「実用的」に抽象が必要ではあると思う。ホテルの部屋など、「背景」としての絵画とか、ね。またたとえば須田剋太が一時抽象に入っていったのことも理解は出来る。そのほか、抽象画やシュールレアリズムに入っていった人たちにとっての、歴史的必然というものはあったかもしれない。

 

だけど、今の時点で考えると、抽象の森に入ることで、ごく一般の人からの、尊敬や憧れを美術が失ってしまった部分があると思う。
僕自身も抽象画で本当に感動する、ということはほとんどない。

反動なのか、今はリアリズムが人気のようだ。雑誌「美術の窓」は、リアリズム絵画特集は売れるという。
理由はいろいろあるだろうが、やはり単純に「手がかかっている」、常人にはとても真似できない、という意味でリスペクト(尊敬)を受けやすいのだと思う。森本草介の絵など、やはり間近で見ると息を呑む。

 

ただ、「リアリズム」も、絵、というものの魅力、ということを考えると、そこだけ追い詰めていけばいい、というものでもないと思う。そういう方向の人もいていいけれども。

絵を描くのは難しいことだと思う。歴史的経緯を知って、そのうえに自分の味を出していく必要がある。だけど、どの時代も創造は難しいのだ。どの時代も常に行き詰まりというものを感じながら次のものを生み出してきたのではないか。

 

他にもずいぶんゆっくりお話をした。そして、もっと美術に興味を持つ人を増やしたい(とくに「買う」という行為において)という点で一致した。絵画にも映画にも、お金を使う面白さ、あるいは「道」のようなものをもっとアピールできるようになりたい。文化的なものに対する高揚感というものが一番高かったのはもしかしたら明治・大正時代なのかな。再び生きることが楽しい時代を作りたい。

 

さて、今日昼飯どきに、月刊美術の8月号を読んだ。聖路加看護大学病院の日野原重明先生と高山辰雄先生の対談の後半。二人とも戦後の焼け跡から、何もないところから自分の仕事を作ってきた面白さとか、多くの人の人情を感じてこれた喜びのようなことを語っていた。お二人は数十年ぶりに会ったという。しかし生きることの喜びを確かめ合うような対談で、私はひじょうに感銘を受けてしまった。二人が最後の握手する写真があったが、何か心のそこから、生まれてきたような握手であった、のではないかと感じた。

 

日野原さんは今でも夜2時、3時まで仕事をしているらしい。最近は早めに寝るようにしているという高山さんが、早く寝たほうがいいですよ、とたしなめるカッコウで、立場が反対。けれども、お二人とも仕事をずっと続けるという。幸せな人生だ。そういう人生を歩みたい。どうすれば、そうなるのか。

 

カタログは「カタログ秋華洞Vol.2」、カタログそうだったのかガイド、そうだったのか通信エクストラ第一号の、原稿校正を、つい2時間ほど前に終わった。明日は印刷、第一陣発送。

 

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