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伊藤晴雨を高価買取いたします

伊藤晴雨

いとうせいう
1882(明治15) - 1961(昭和36)
伊藤晴雨

東京生まれ。大正末期まで静雨と号す。野沢堤雨に師事し琳派を学ぶ。様々な新聞社で挿絵などを担当した。関東大震災後、沢田正二郎の新国劇に加わるなど、劇界でも活躍した。責め絵や 幽霊画などの風俗画家として広く知られる。

ゆかりの都道府県
活躍した時代

作家紹介
伊藤晴雨とその画業

絵上手の芝居好き

伊藤晴雨は明治15年(1882年)、浅草(北千住の説もあり)の彫金師の長子として生まれました。
幼少から絵を得意として、その才能は、5歳の晴雨が龍の絵を描き読経を行う姿を見た増上寺の大僧正が、
その見事さに「是非僧侶にするように」と父親に申し出たというエピソードを持つほどです。

8歳で琳派の絵師である野沢提雨に弟子入りし、12歳で象牙彫刻師、内藤静宗のもとで丁稚奉公を始めます。
この時、内藤宅が購読していた東京朝日新聞の右田年英(月岡芳年門下の浮世絵師)の挿絵を模写して、絵を学び続けていたといいます。

その後、晴雨は絵描きを志し、奉公をやめた23歳頃から芝居小屋に転がり込み看板絵などを描き始めます。
幼い頃からの芝居好きが幸いして、そこから25歳の頃には新聞社に入社。小説や講談の挿絵を手がけながら劇評も連載して人気を博し、絵師としても認められるようになっていきました。

責め絵師、伊藤晴雨

晴雨の代名詞である「責め絵」は、30代半ば頃から描き始めたもの。驚くことに、彼がこのサディスティックな題材に興味を持ったのは幼少期にまで遡ることができるというので筋金入りの性状です。

影響を受けたのは10歳の時母に連れられた本所寿座で見た『吉田御殿、招く振袖』の竹尾の責め場、また7歳頃に母から語られた『ひばり山古蹟松』の中将姫の「雪責め」の物語などで、これもまた芝居好きの晴雨ならではと言えましょう。

また、晴雨を語る上で外せないのは34歳のときに出会った佐々木カネヨです。当時12歳の彼女は東京美術学校(現:東京芸術大学)でモデルとして勤め、近代洋画の巨匠・藤島武二や大正ロマンの寵児・竹下夢二とも交流しました。

晴雨はモデルとして、また愛人として彼女にたいそう惚れ込み、「今私の画いて居る女の顔は彼女の形見である。」と語るほど。カネヨは晴雨の創作に大きな影響を及ぼした女性であり、またこの時期は大変濃密な制作期間であったことがわかります。

しかし3年後、カネヨに去られたのちに妻 竹尾とも離婚。二人目の妻 佐原キセと結婚し、これ以降の「責め絵」のモデルはほぼ彼女の姿となりました。

風俗画家として

しかしながら大正12年(1923年)の関東大震災によってその生活は一転、翌年にはキセはとも離婚してしまします。
この未曽有の災害によって、見慣れた町並みが無残に失われたことが引き金となったのでしょう、この頃から晴雨は、急速に失われゆく江戸の風俗、芝居や見世物などの研究を精力的に行っています。

綿密に記録した資料や考証画は『いろは引・江戸と東京風俗野史』として出版し、これは今日でも貴重な資料となっています。
また三人目の妻 とし子を娶り、「責め」の分野でもいよいよ個人的な趣向の範囲を超え、性風俗研究家・高橋鐵と知り合ったことも加わり、一層様々な考証、資料の収集にとその研究を徹底していきます。
発禁となった『責の研究』や艶本『論語通解』など、今尚名著として語り継がれる研究書を次々に発刊したのもこの時期のことです。

その後、結婚期間10年の末、1935年にとし子と死別し、太平洋戦争がはじまると、東京大空襲で家財の一切を焼失し、今まで撮影した写真、書き溜めた画稿、集めた稀書資料のすべてを失うこととなります。

それがよほどこたえたのか、戦後はそれまで積極的だった出版も途絶えることになりますが、雑誌への連載、エッセイの寄稿、自叙伝の執筆などは継続的に行われ、生涯「責め」の研究と創作を発信し続けました。

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