銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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博打打ちに捧げるバラード、父たちの死

   

 今週は伯父の三回忌がある。伯父は京都思文閣の社長を長く勤め、一昨年亡くなった。先週は伯父の事を追悼した古書の業者入札会が京都であったと聞いた。市場にある古書画、古書を片端からさらって行った伯父は業界で歓迎されない部分もあっただろうが、一方でその存在がなくなる事は事件たりえたということだろうか。
 私たち美術商(含む古美術、骨董、古書店)同士は、ある品物を奪い合うという点においてはライバルでもあるだろうが、その一方で、同じ品物を愛でるもっとも近しい理解者でもあるという点で憎からぬ同志相棒でもある。商売はモノを買ってモノを売る仕事だが、そのシナモノが売れるかどうかは努力もあるが運次第でもあり、却って損の種になることも少なくない。そういう意味ではこの商売、すなわち書画骨董美術商はひとしくバクチ打ちでもある。
 そうした共感を何か不思議な空気のようにして共有しているのが我々の業界であろう。だから伯父の事を思い出し、伯父が業者のセリ市に居ない事が一種の空虚を呼ぶ。もっとも愛(あるいは執着心)の強い人物の不在。もう慣れてしまったような、いつまでも慣れないような、その感じを皆片隅に感じているのであろうか。
 そして父が死んでからも、もうすぐ一年が経とうとしている。こちらの一周忌は、ごく内輪でやることにした。ちょうど同じ秋口に亡くなった二人の法事が連続するのはよくないだろうという私の判断だ。
 ご近所の泰明画廊さんの社長川田さんも同じ時期に昨年亡くなった。洋画商として、ロータリアンとして最も尊敬されていた優しい人物の不在もこの銀座に見えない穴を開けた。
 この三つの不在を埋めて生きる事、もちろん直接的には父の不在を埋めて生きることに、今は物理的にも心理的にも一杯の時期ではある。
 先日、『いねむり先生』というテレビドラマを見た。亡くなった夏目雅子とのあまりに短い結婚生活の後の苦しみに耐えられず、幻視にさえ悩んだ伊集院静の書いた死別からの克服の物語である。「いねむり先生」とは、『麻雀放浪記』で有名な、阿佐田哲也(色川武大)の事。すぐに眠くなってしまう、という不思議な病気を抱える阿佐田哲也「先生」は、ご飯を食べている最中にでも、急に眠ってしまうのである。この先生にいたく気に入られた主人公(伊集院静、劇中では三郎と呼ばれる。演ずるのは藤原竜也)は、先生と時折「旅打ち」に行く。すなわち、日本全国を行脚しながら、競輪、麻雀をする、気ままな旅である。先生は西田敏行が演じるのだが、その辛抱強い優しさが、ほぼ死の淵まで沈みきった主人公の魂を救うことになる。
 ところで、私は博打はやらない。時間の無駄だと思う。だが、このドラマでふたりの道行きを見ると、博打もいいな、無駄な時間もいいな、と思えてくる。無為に見える博打打ちの道行きを「先生」が心の旅に変えていく。旅先で出会う人の心にさりげなく生々しく触れていく「先生」に主人公も心溶かされていく。
 自分の世代の美術商に博打打ちは少ないが、父の世代は多い。その多くは麻雀だ。あのジャラジャラパイをかき回す徹夜の時間(まさに「朝ダ徹夜」)は不健康としか思えないが、あの麻雀世代特有の人情味、無駄に意味を与える心の世界は、私たちの世代にはないものにも思える。たしかに、西田敏行の演ずる「先生」のあの繊細でさりげない優しさは、父や伯父が時折見せた人情味に通じる何か見えない「味」があった。ついでにいえば、しょっちゅう居眠りするのは父と私に共通する特徴でもある。病気ではないけど。
 「夏目雅子」ともし結婚して、数ヶ月で死なれてしまったら、どんな男でも、生きることに耐えられないだろう、と想像できる。愛する人の死を受け入れる力を与えてくれたのは、理屈でなく、先生との豊かな時間であった。もっとも無駄で、もっとも無駄でない時間。バクチウチの父には、私たち家族は、随分迷惑を被った部分もあるけれど、あの先生と同じように、理屈でなく人の心に触れていく無形の何かを、父は持っていたように思う。
 ドラマでは、主人公が立ち直って、しばらくして「先生」はふいに亡くなってしまう。生の側に主人公を送り出した先生は、役割を終えたと言わんばかりに、向こう側に、すっと隠れてしまうのだ。妻の不在、先生の不在に、主人公はしかし今度は耐えていけそうな面構えを獲得している。あの「旅打ち」の日々が与えてくれたのは、人生を楽しむこと、その登場人物を慈しむ事の染みこむような味、生きる意味そのものであった。
 ネット世代の僕らは情報の摂取と拡散、そして行動にあまりに忙しい。徹マンなんてとてもやっていられない。仕事自体に博打性があるのに、それ以上の「ゲーム」などとてもとても。しかしそれでも、ひとと「遊ぶ」こと、ぶらりと歩く事、バカなことでも一緒にやってみること、ひとの希望や願望につきあってみること、その楽しさ、豊かさ、にたまには身を委ねてみることの大事さは、ずっと、つないでいきたい。忙しい、ばかりが能ではない。理屈でない、心をつなぐ時間が本当は世界を動かしているのかもしれない。
 
 そんなわけで、今月は父たちが遺していったものを、ゆっくり考える時期になるのだろう。
 
 

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