銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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ベンチャー、母校武蔵、情報管理くそくらえ

   

またベンチャー懇談会にお招きいただき参加した。

バイオベンチャー、知財ベンチャー、VCなどの方々のかなり体育会系の理系、という感じの方が多く、海外とのかかわり、MBAなんて当たり前かどうかわかりませんが、ともかく元気いっぱいで、いやあなんだか場違いかもと思いつつ、美術業界という穴にいてばかりいてもしょうがないので、刺激になりました。

武蔵について

最後に突如教育というか、学校の話になりまして、千葉のなんとかという学校が今この10年でぐぐぐぐーんと伸びているそうです。一方で、麻布改正武蔵のうち武蔵の凋落が著しいと。ちょっと自分が武蔵であることをいい出し損ねました。

武蔵、って卒業生がものすごく愛校心のある学校で、自分は武蔵だ?、文句あっかという気風が強いのです、とくに年輩の先輩がそうです。

武蔵の良いところはともかく自由。放任。野放し。ほったらかし。
悪いところも同様。

僕は武蔵は実は良くない学校と思っていて、ちょっと背骨が足りない。理念が足りない。あるいは理念を実現させるエンジンが足りない。東大合格率なんて、はっきり言ってどうでもいいんですけど、あっとビックリする人材が出てくるような骨を注入するべきと思います。

ともかくやるべきなのは、掃除をさせる事じゃないかと思います。もう世の中悪い意味での自由なんていくらでもありますから、人のためになることをする、自分で自分のことをする、まあ制服は必要ないと思いますが、理念を深めることを考えるべきではと思います。

守秘義務、個人情報保護などについて

それとですね、話題に上ったのが、ベンチャーや企業での情報管理の問題。
ちょうど今日の新聞で、JR西日本の事故監査委員会とJR側が内通していた、という報道がありました。これでますます「情報管理」がやかましくなるでしょうが、昨日の会議で話題になっていたのは、むしろ情報の閉鎖性。最近はやたらセキュリティが厳しくなり、また個人情報保護どうのこうので、めったやたらにしゃべっちゃいけないことが多い。今度の裁判員制度も問題がありそうです。

昨日議論になったのは、会社の知財管理に繋がる情報管理、まあたしかに大事なのですが、本当のところ、その過剰さで、自由な知識・知恵・アイデアの醸成がさまたげられているという問題。情報管理に関しては、シリコンバレーは五月蠅い部分もありますが、同時に非常に様々な会社間で自由に議論しており,風通しがいいぞ。日本人は形ばかり守って、実際なにか活性度が低い。これはどうしたもんかというテーマ。

ところで、私は個人情報保護法案、まったく国民的議論がなかったと思います。なんかいつの間にか出来た。出来ちゃったら守らなきゃ、てんで、やたらコンプライアンスがどうたら、と企業は顧客情報管理の建前を並べる。プライバシーポリシーですね。ウチもやってます。一応。

でも、気になるのは、ほんとうの理念をやろうとしている人がどれだけいるか。そもそも理念なんて有るのか。国際的なコンセンサスがあって、批准した法律と言うことになっているが、日本の過剰反応する世論というか世間に本当に適した法律になっているのか。

われわれの生活の「何」を守ろうとしているのか。

法律が出来たから、守る、まるでオカミのいってることに逆らったら殺される、という被支配意識丸出しのやり方ではなくて、本当どうするべきか、マイルール、を大事にする精神がもっとヨノナカにあるといいと思うのですが。

そもそも60年代、70年代、大人の作ったしきたりに異を唱えて、学生たちは反抗したエネルギーはなんだったのか。結果として若気の至りで、安保反対間違いでした、となったとしても、世の中の決まり事に対して、疑問符をいだく、という当然の「思考」がストップした世の中はとっても生きづらい。

例えば差別の問題でも、そういう差別、本当にいいんだろうか、という正常な思考が社会を進化させてきたはずで、逆に法律で決まったからコウする、という意識はとっても不健全ではないでしょうか。

ちなみに、武蔵高校には校則が無く、それがいいところとされていますが、校則があるにしろ、ないにしろ、その精神を守る、という土台を醸成する努力なしには、規則なんて下らないもんです。

情報管理、企業秘密、個人の秘密も結構ですが、同時に本当に大事なことはなにか、健全な常識に照らすのも大事。いまだに同窓会名簿を堂々と作っている武蔵学園の見識はやっぱり好きです。バカな学校なら「個人情報保護」法律が出来ましたので、名簿は中止となりました、となるでしょう。
最近は病院も番号で患者を呼んだりしますね。間違えて薬を出したらどうするんでしょうか。名前を呼ぶのをためらうことで、取り違えるリスクをどう考えているのでしょうか。

最近は表札に名前を出さない家も図に乗って増えていますが、世間に顔向けできない事でもやっているのでしょうか。殻に閉じこもることで、孤独や自殺が多い世の中になっているのではないですか。

なんか変なところで固まっている社会は、骨が曲がった体のようなもの(昨日カイロプラクティックでめちゃくちゃ曲がっていることが発見された私の恥ずかしながらの体のように)。

もっと元気にコミュケートしようよ、ということで今日の「随筆」を締めくくります。

 - 世間の出来事, 意気込み, 愚痴, 日常

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