銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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暴力と非暴力の狭間

   

えー、厚生省元幹部へのテロが話題になっております。

暴力、といえば中学では時々なぐられていました。喧嘩は強くないのでやられっぱなし。

僕が8ミリの映画を作っていたとき、あまりにひどい助監督に手をあげたことがあります。でも、結局現場の不評を買って、うまくいかなくなった。

暴力には必ずしっぺ返しがくる、と学びましたね。

けれど、ニンゲンノ歴史は暴力の歴史でもある。日本の歴史で言えば、信長、秀吉、家康。明治維新。西南戦争。日清日露、太平洋戦争。「暴力じゃあナンにも解決しない」と一方の口でいいながら、警察力、軍隊、の力で作られてきたのが、国の形である、という現実。テロ、というのは非正規軍ないし個人での政治目的の暴力。成功すれば「ゲリラ」「レジスタンス」というややヒロイックな位置づけ。

私たちの社会は「暴力」が何であるのか、わけがわからなくなってしまいました。暴力を統御する一貫した論理がなくなっちゃってるんですね。ただ、みんなが「正しい」となって、関係ない国、イラクアフガンに空爆する、狂った正義の国アメリカよりも、なんだかわからなくなっている日本の方が、少しマシかもしれませんが、幾分現実から浮いてる気がしますね。

厚生省の役人へのテロ、というのは、その非対称ぶりが、ふつうのイメージのテロ(弱者が強者にふるう無差別暴力)とはいささか違うので戸惑いますね。

結構、日本社会は戦前の歴史はテロ、あるいは2.26事件、 5.15事件から始まる暴力が政治家と国民を戦争に駆り立てた部分があると思います。愛国的?なスタンスをとらないと暗殺される恐怖。恐怖を背景に、軍部をコントロールできずに、「勝つ」戦略が未成熟、本当に「よい」「共同謀議」ができないままの戦争。正論を言えば、殺されるかもしれない、という恐怖に勝てない政治家が、国家戦略を策定できず、国を漂流させてしまった。まあアメリカのワナがあったとしても。すなわち、「テロ」は「効く」のです。

だからこそ、社会はこれを排除しようとする。テロは毒薬のようなもので、たとえ正しい動機があるにせよ、それによって動かされる、恐怖を背景にしてできた社会は、ものがいえず、住みにくいから。

こういう不気味さの背景には、ものを決められない、バカ首相に象徴される、政治の空白状態があると思います。不満がマグマのように溜まっている。それはぼくら国民の責任でもあるとは思うが、選挙がこなければ意思の表明のしようがない。オバマが世界にとってよい指導者かはなってみなければわからないが、少なくとも彼の言葉が持っているような、ビジョン、歴史観を明快に持った政治家に国家を運営してもらいたい。文化、宗教観、にも深い見識を持ってほしい。政治が迷走すればするほど、気持ちの悪い事件が起き続ける、のではないかと思うのですが。

暴力は悲しい。スマップ中居くん主演、ごくせんの仲間由紀恵ちゃん主演(紅白コンビ)が主演の「私は貝になりたい」で、この世の暴力、非情、無情を嘆き、「生まれ変わったら貝になりたい」と主人公はつぶやくそうです(すみません、本作も、フランキー堺のものも、見てないです)。しかし、人の世にすみたくない人の世を、よくするものは、言葉の力、ニンゲンへの深い洞察ヌキにはありえない。暴力を知らずに生きられる社会はまだ現れていない。ニンゲンにそういう事はできるのでしょうか?

 - 世間の出来事

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