銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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「わ」の会 ステキでした

   


「わ」の会、というのに行って参りました。


「和」の会、とか「輪」の会ではありません。


「わ」の会です。


「わ」とはわたくし、という意味です。


わたくし、とはわたくし美術館、すなわちご自宅を解放されて、趣味で集めた絵を広く公開しようという志を持った方を中心とした交流会。


次回9号のカタログには柏で、ご自宅を美術館として公開されている堀さんのご登場願うのですが、その方のご縁でこのたび「わ」の会に昨日お邪魔しました。



すばらしい会でした。お互いの絵を品評しあう、ごく私的な集まりを想像していたのですが、美術教育の権威の方や、するどい視点を持ったコレクターの基調講演などあり、アットホームでありながらも、ここちよい緊張感(というのはちょっとおおげさですが、格調高さといいますか)を秘めた集まりでした。



なかでも基調講演では、日本の教育分野で、「美術鑑賞教育」がいかに人格形成するのに大事か、というお話があり、感銘を受けました。


鑑賞、あるいは、美術収集もそうなのですが、美術を鑑賞するということは、そこに自分の心を探す、ことなのですね。写真というものがある今、たんに情報としての画像は必要なく、自分とは何か、悪辣な部分といいますか欲望のカタマリとしての自分もあれば美しさや聖なる純粋なものへの指向もある自分とは何なのか。「人」「心」とは何なのか、を探るのが美術鑑賞というモノ。


飲み会でも楽しいお話。


飢えた子供には芸術はいらない、必要なのはパンだが、「死」を意識する年齢、それは20かもしれないし、60かもしれないが、この世でない世界、「向こう側」の世界はどうなっているのか、知りたい、「死」あるいは「生」ときにはエロスと向き合いたい(死と生の狭間としての)、という時に、美術は必要になってくるのですね。


あるいは一枚の絵が。


だから古今東西、仏画は必要とされ、鑑賞され、買われる。


パンが満ち、生活必需品が満ち、そして自分の生き方と死に方を考えたとき、美術作品が必要となる。これからの高齢化社会には美術は必要なモノ、というお話が出て、なるほどそういう役割がある、これからは僕らの業界としても希望があるな、と思ったのでした。


若いIT長者さんには魅力的な人もいるけど、足りない要素があるとすれば「死」あるいはこの世でない世界への畏れとか興味がない=美術に関心がない、ということかもしれない、などとも考えたのでした。


逆に言えば、若くして美術に興味を持つということは、生きること、死ぬこと、人生のはかなさみたいなものに敏感な人の証しなのかも知れません。

 - シヤワセ, 美術の世界あれこれ

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