銀座の画廊で働く社長ブログ

秋華洞の社長、田中千秋オフィシャルブログ。 近代絵画・古美術を扱う美術商。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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諏訪敦展「どうせなにもみえない」行ってきました

   

 諏訪美術館というところに、単身一泊一人旅。
 開催中の諏訪敦展を見に行った。
 打ちのめされ、魅了された。
 
 今まで、諏訪敦という作家のことを殆どわかっていなかったことに気づく。
 
 
 舞踏家の大野一雄のベッドに横たわる老いたさまの克明な描写も見たことがあるし、骸骨を手にするヌード女性の作品も見たことがあった。しかし、描写力に意味を持たせる事に苦労している、という程度にしか見れていなかった。
 
 しかし、成山画廊さんでの展示に続き、今回、諏訪美術館のBGM付の二階の会場を一回りして、この作家の強固な構想力が感じられて、何もわかっていなかったことに気づく。そして、最後に見た一枚、あのNHK日曜美術館でも取り上げられた、なくなったお嬢さんをご両親の依頼で描いた肖像。これには打ちのめされ、涙が出てきた。図録にも載っているし、たぶんネットでも探せば出て来るかも知れないが、そこにたたずむ「絵」の力を思い知らされる瞬間であった。
 
 諏訪敦という人は、なんと優しい人であろう、と思った。昔の名前のない仏師が、署名なしに仏様や曼荼羅を描いたように、その作品には諏訪の自己主張よりも、亡くなった女性が、むこうの世界からただいま語りかけてきていることをただただ実感させるものであった。文字盤のない腕時計をこちらに見せて、ほんのわずか、微笑んでいる。光が、彼女の姿からあふれ出ている。10,000年経って、諏訪の名前も、美術史も、なにもかもが地層の下に沈んでも、掘り出されたこの絵が、なおも光芒を放つだろう、と思わせる力があった。
 
 諏訪はこのご両親の依頼に完璧に応えて、おそらく望んだ以上の仕事をしてのけた。そのプロセスも、非常に迂遠に思える手続きを踏んでいる。女性の両親のデッサン、腕の表現の為に、義手のメーカーさんにありうべき腕の再現を頼む。
 
 彼の絵画制作手法は、映画のシナリオ作りに似ていると思った。伊丹十三がよく、実録もの(マルサの女とか)の映画を作ったが、彼もまた、徹底的に取材を積み重ねて、シナリオを編んだ。絵画作品の場合、そこまでする必要があるのか、それは儀式ではないのか、とも思えるが、たとえ実は儀式であったとしても、卑近な例であるが、ゴルフスイングにプレショットルーティンが必要なように、絶対に彼にとって必要なプロセスなのであろう。別の言葉でいえば、こうした儀式を執り行うために、絵をアウトプットとして用意しているのかも知れない。人間の生、に近づく事そのものが、面白いからだ。
 
 ところで、この展覧会のなかで、「リアリズム」と呼ばれる方が「写実」と呼ばれるより、マシ、というような言葉が出てきたように記憶している。最近流行りの「写実」とひとくくりにして欲しくない、という抵抗の表れであろうか。
 
 「写実」とか「細密」とかいうのは、絵が絵として、とりあえず、頑張ったでしょ、絵になってるでしょ、と誰が見てもわかる、という意味で、便利だ。デッサンがあっていれば、「まあ、写真みたいね」という予想された反応が返ってくる。絵の単価もあげやすい。「クマガイモリカズ」みたいに、引っ掻き傷のような描写で号単価を上げるのは、容易ではない。しかし、二一世紀に画家であろうとすれば、そうした卑近な議論をずっとずっとずっと先に乗り越えた強固な思想を持たなければ、画家たりえない。そうした地平を、たぶんこの作家は見ようとしているように思う。
 
 さらにところで、「どうせなにもみえない」という題名は、作家から対象物を見た視線のことを表現しているのであろうが、実は、鑑賞者、あるいは画廊主から見ても、作家のことは「どうせなにもみえない」。私も若い作家とつきあっているが、本当に彼らのことがわかるかといえば、ほぼ、わかっていない。「どうせだいたい見える」なんて逆に思ったら、深いオトシアナが待っていることは必至である。こんなふうに少し論考を書こうが、他の作家のことをあれこれ思おうが、話そうが、「どうせなにもみえない」。だから、もう、見ないのか、何かを見ようとするのか、というのは自分の人生に関わることで、自分がどうしたいか、という事である。
 
 人が自分をどうみるかも同様、「どうせなにもみえない」。誰も自分の事を理解しない。そんな感傷も40も過ぎると持たないし、あたりまえだと思う、むしろ心の底にある諦念のようなものである。それは皆持って居るであろう。
 
 さらにさらにところで、よく、絵画を表するのに「表面的な美しさだけでなく、内面さえも表現している」なんてな事をテレビやテキストで言っているが、ちゃんちゃらである。内面など、「どうせなにもみえない」。人の顔は、表情しか見えないし、絵は表面しか描けない。諏訪は、よく骸骨を出すことで、おそらくは、みえざる死のイメージ、言及されない真実を示唆しようとしているのだと思う。しかし、内面を描いているかと言えば、そうではないであろう。そんなものは、わからない。
 
 しかし、「どうせなにもみえない」けれど、人は感動することが出来る。映画、詩、小説、そして絵画で、身体を刺し貫くような電撃が、走ることがある。それは人と人が、おなじ誘電物質を持っていること、すなわち、いちいち「何かが見えなくても」、わかりあえてしまう、力を、人が持っていることを示す。つまり、共感能力ってやつね。そうした力を、最大限に誘発するのが、芸術作品なのであろう。ま、共感をあえて否定するとか、ややこしいコンセプトもあるだろうけど。ともかくも、そうした内面なんて、わからんよね、人の考えていること、わからんし、と思いながらも、まあ、だいたい、人間なんて、同じ様なもんだから、わかるところはわかるよね、という楽天性の間をいつも人は揺れていて、そのスキを狙って、最大限にド、キューンと貫くのが力のある芸術というものであろう。
 
 そういうわけで、まだやっているので、諏訪に行ってみて下さいませ。
あ、そうだ、忘れていた。この美術館の細面の女性、親切で、美しかったなあ。ウチの林もこの町出身で、少し彼女に似ているが、この町は、静かだが、優しい人を産む土地柄なのであろうか。私はこの町に住んでいたら、絵画でなく、この受付の女性を見に、通うことであろう。
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