銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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橋下記者会見と永遠のゼロ

   

ところで、橋下の外国特派員協会での記者会見はひどかった。
この会見が如何にメタメタであったかは、よしりん先生こと「小林よしのり」が簡潔に書いているので(一部有料)、そちらを読まれたい。
僕が違和感を感じた点はいくつかあるけれど、「慰安婦が必要だった」としたのは、橋下本人ではなく、当時の軍だった、としていることだ。言葉のはじっこを取り上げて、マスコミが情報操作したなどと主張するのは、わかりにくい。彼自身、「新地」の顧問だったこともあるくらいなのだから、今も昔も「必要悪」くらいの発言をすればまだ首尾一貫しているというものだ。ところが、その「料理組合」の顧問はしていたが、そこでは違法なことはなかった「筈」といういかにも「弁護士」らしい詭弁を弄する。
みっともない。どうせつつかれる事が予測できることなのだ。フーゾク、何が悪い、と、胸をはるなら張れば良いのに、この期に及んで、そんな逃げを打つのなら、最初から話題にしなければよいのだ。
過去の慰安婦問題についても、右も左も納得しない、誰も救われない論理であった。かつての日本軍人が「悪」であったというステロタイプの議論から逃れるわけでもなく、「みんな悪だったのだから仕方がない」という。
この問題、今書いていて思うのだけど、やっぱり、白黒つける、上手に論理構成するのが難しい問題で、なれば、十分に勉強して正面突破するか、この問題については、自分も勉強中です、と一歩引く他、政治家としてはないであろう。正面突破するのかと期待していたら、なんだかわからない幕引きであった。これでは韓国ロビイストと朝日毎日を喜ばせるだけである。ほとんど事情のわかっていない米国議会や、こないだテレビの「TVタックル」に出ていた直情的アメリカ人のようなヒト(スキナーさん)を引き続き「人道的怒り」
に導くだけである。
ところで、百田尚樹氏が書いた「永遠のゼロ」という小説を読了した。
かなり売れているので、多くの人が読んだものと思う。零戦で特攻した男を祖父に持つ姉弟が、その知られざる人生を調べるという物語を通して、あの戦争を現場の視点から見ていく、という道具立ての小説である。小説それ自体の構造はありきたりで、この物語構造の弱さをそのままシナリオにすると、つまらーん日本映画が例によってできてしまうであろうから、とても心配なのであるが、それはともかくとして、この話の内容は極めて面白い。
この小説が喝破するのは、命をとしてクニや家族を守ろうとした貧しい一般兵士たちを、陸軍・海軍のエリートたちが如何に軽く扱い、愚弄したかということ、そして戦前も戦後も国民をミスリードし続けて一度も反省の色のない左翼マスコミの反省のない姿だ。まあ、誰が見てもこの戦争をミスリードしてなおも反省のないのは、朝日新聞とわかる仕掛けになっている。朝日の記者をカリカチュアした人物が主人公の姉の恋人として出てくる。あまりにわかりやすく嫌なやつなので、実際の朝日の記者が読むと「こんなヤツはいねーよ」となるのであろうが、自らを戯画化するとこうなる、というふうには読めると思う。
この小説で繰り返し出てくるのは、戦争をやめるべきときにやめられず、反対に戦術的に押すべき時に何故か押し切れない、エリート官僚たちが日本を敗戦においやり、しかも誰も責任を取らない構造である。これは言うまでもなく、原発事故で誰も責任を取らない、現代の官僚機構につながっている。
そして戦争に行った男たちを戦中は軍神などと崇め、戦後は一転して石を投げる日本国民一般の酷薄さも繰り返し描かれる。
人間は、たいてい、ずるい。自分が生き残りたい、有利になりたい、と思うからだ。ただ骨の髄までズルイよりは、一見、悪党に見えても、本当に心優しい、気骨のヒトは、時々、いる。けれども、日本社会は何故か、本当に最後まで責任を取る、思いやりのある人間をエリートにせず、逃げまわり、責任をとらない人物をエリートにしてしまう。なぜだろう。これは近現代の日本社会の謎である。
戦艦大和と零戦の多くの航空兵を犠牲に差し出してろくに責任を取らなかった、戦中のエリートは、おそらくあの事故の時、他人事のようにキョトンとしていた東電の幹部の顔と似ていた事だろう。
そしてマスコミ的な正義感、すなわち戦前は戦意を煽り、今は過去の日本の悪を呪う態度も、かつてのエリートの姿と重なる。絶対に傷つく立場にはまわらない、自分を安全地帯に置く、ひとに冷たい態度だ。臆病者の態度。たとえ弱い立場にまわっても、本当に今なすべきことは何か、少数派にまわっても、意見を言えるような人物が、歴史を作る。100の評論家よりも、1の責任を持つ人間が、ひとを幸せにする。
あの戦争でアメリカが強かったのは、「責任」をとる、という事が、上から下まで、きちんとしていたことらしい事がこの小説でわかる。今はベトナム・イラク・アフガニスタンを見ているとそうでもないのかもしれないけどね。
本当の生き方、処し方は何なのか、考える材料として、とてもこの小説は、優れていると思う。
生き残りの兵隊に石を投げた身勝手な国民性が生んだ新たなる一般兵士への「セカンドレイプ」が「従軍慰安婦問題」ともいえるであろう。朝日と韓国と福島みずほの偽善トリオの演出である。もう、アメリカの議会で、どのように論破しても無駄、という悲しむべき状況が生まれているけれど、日本人は日本人として、このような本を読んで、戦争のバカバカしさと戦争に赴いた男たちの潔さは知っておいて良いのではないか、そして時代に抗うことの難しさも、信念を持つことの重要さも。
もしもう一度、今の記憶を保ったまま、100年前に国民全員がタイムスリップできたら、私たちはどのような政治を行い得たのであろうか。本当の反省点は何なのだろうか。マスコミの悪口を書いてみたけれど、本当は国民一人ひとりも愚かだったともいえる。戦後の我々は、一体本当は、どんな教訓を学んだら良いのだろう。

 - 世間の出来事, 読書

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