銀座の画廊で働く社長ブログ

秋華洞の社長、田中千秋オフィシャルブログ。 近代絵画・古美術を扱う美術商。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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全否定という事

   

はじめに断っておきますが、えいぷりるふーるとは関係ない話題です。
先日日経の夕刊か朝日の朝刊か忘れましたが、村上隆さんが「自分は美術館も含めた日本の美術業界を全否定しているから、ギャラリーも自分たちで作る」と述べているのが掲載されていました。
全否定、という言葉は非常にインパクトが強く、さまざまな発想が浮かびました。
・戦後の美術業界の権威主義による新感覚の否定、たとえば中村正義が必死に抗ったような。
・否定という生き方と、肯定という生き方。
・アートとは何か
・単独と協力
・歴史の波濤を超えて残る芸術とは
ブログの文章としては長くなりすぎると思うので、簡潔に書きます。
いや書けるかな。。
今、中村正義について英語のメルマガを書いているのですが、彼もまた、日展のありようを批判し、自分たちの足場を築こうとしました。それが人人会という足場でした。縁故主義が跋扈する内向きの現状にいらだったようです。
私は村上隆氏の書いた著書はいくつか読みましたが、いわば彼を拒絶したある種の閉じた輪のような日本の美術業界あるいは日本の社会を彼がいったん拒絶するのは当然の事で、新しい才能の掘り起こしからギャラリーまで一貫してやろうとするエネルギーと企画力には、アート業界の立場どうこうと関係なく、すごいなと思います。
たぶん自分がアーティストであれば、私は会田誠とたまたま生年月日が同じなのですが、自分にとってリアリティがあり、社会にある種の挑戦状をつきつけつつ、しかも魅力のある作品は何か考えるでしょう。私の場合は映画、を作りたい人間だったので、考える手がかりになるのが映画です。大衆にこびても、背を向けても、人は見てくれないでしょう。新しいものを生み出さないシステムとしての美術システムは、本当のところ、観客も作家も育てない。新しい何かを作るべきだと思います。
ああ、全然簡潔じゃないな。。
否定と肯定について。
僕はアート以前に、日本の現状のシステム自体に無自覚に参加することが嫌で、映画や農業をやったりしていましたが、今思うのは、「草枕」です。智に働けば角が立つ、情にさおさせば流される、意地を通せば窮屈だ、どこか人のいない国に引き超したいが、どこにこしても向こう三軒両隣、人の住む国である(本当の文章はグーグルで調べてくださいね。これは僕のいい加減な記憶です。)
人の社会は完璧でないし、欲望はいびつだし、既得権益も横行している。けれどもどの世界に行こうとも、ニンゲンは変わらない、同じように欲のかたまりで、しかも弱い。私は商売なんて、と子供の頃思ってましたが、商売こそ、人の基本じゃないか、と今は思っているのです。欲も希望も愛も自分勝手もあるニンゲンとつきあう営みのなかに、自分を表現しようじゃないのと。
で、私は映画を作ろうとしているときにいつも考えたのが否定と肯定でした。文学や芸術は現実への違和感、異議申し立てとてしての告白もありますが、同時に、何を肯定しようとするか、という態度の問題でもあります。否定と肯定があってこそ、感動や魅力がある。村上氏が「全否定」した美術システムの反対には「全肯定」するべき何かがあるのだろうな、と感じました。


単独主義と協力主義
自分だけでやろうとするとうまくいかない、画家を育てるのは複数の画廊がいい、なんて事がひとつの説になっています。挑戦と協力関係のバランスが成長には必要。こんどわたしが進めているクレドオークションはひとつの協力主義、ほかの画廊さんとの連携を重視しています。
歴史の波濤云々
これはこないだある画廊さんと話したのですが、つまり真の芸術とは、100年、200年後に残るもんじゃないの、というテーマ。今オークションそのほかで評価されているモノのウチ、100年後に残るモノは何か。すべての虚飾をはいだ後に残るモノ。それを生み出すのは誰か。村上華岳か、横山大観か、中村正義か、村上隆なのか。
私は両村上と大観は必ず残ると思うし、正義も何とかいけるかなと思います。
別にね、今を生きているのだから、歴史なんて関係ないといえばカンケーナイのですが、自分の心に何かひっかかるものを提案したい、とはいつも思っていまして、そのことと、歴史のフィルターの話は、つながるんですね。
ま、ぜんぜんまとまりませんね。

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