銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

秋華洞の社長、田中千秋オフィシャルブログ。 近代絵画・古美術を扱う美術商。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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『歸國』には困った

   

北海道への家族旅行からの帰宅日であったので、なんとなく気になっていた倉本聰の『歸國』を途中からしか見られなかったのは残念であったが、途中から見るくらいで十分な内容であったので、残念であった。

つまり失敗作であった。

内容が内容なので、多少、説教くさい内容であっても、仕方がないと覚悟はしていたが、何しろ素晴らしい脚本であった『風のガーデン』の倉本聰、ときどきドキリとする官能やニンゲンの生臭さを見せてくれた『北の国から』の倉本聰、の仕事だから、きちんとドラマの力で「メッセージ」を遠回しにしかし、しっかりと、見せてもらえるだろうと思ったら、ずいぶんな手抜き仕事であることに驚いた。

もともと舞台作品として創ったものをドラマに焼き直した香りがぷんぷんとしたが、これはとりもなおさず設定のまずさ。「英霊」が現代に戻ってくるのであるなら、幽霊として「目に見えない」存在なのか、「実体」なのか、どちらか設定をしないと、映像作品としてはリアリティに欠くのだが、基本「目に見えない」幽霊として演出しているのにもかかわらず、現実の物を手に取ったり動かしたり、あまつさえ剣で人を刺して「殺人」まで出来てしまう。感情移入がしにくい構造を全体に張り巡らせて、せっかくの各俳優のハリキリ演技に水を差してしまう。長渕剛なんてのは、「兵隊」役として上手なキャスティングだと思ったが、ちょっとモッタイナイ。たけし、は、全く器用な俳優ではないので、かなり状況を作り込まないと彼の良さが出ない。あの「殺人」は「らしさ」を活かそうとしたのだろうけれど、もうひとつ説得力がないですなあ。

「なんで政府が靖国に参拝しないのだ」「こんな不幸な社会を作るために俺たちは死んだのではなかったのだ」など、メッセージとしては上手に作れば伝わるかもしれなかったモノを、表面的な書き割りのようなドラマにしてしまった。ネットで酷評されているのもうなづける。

残念だなあ。

たけしらが、「ディスコ」か「ライブハウス」みたいなところで、「年寄り連中がエラソーなことを言っても俺たちは好きに自由にやるのだ、関係ねえ」みたいな唄と踊りを若者が「ノリノリ」でやっているところを見る、というシーンがあったが、現代の若者がああいう歌を一度でも歌ったことがあるかといえばないし、現代の若者にも当然、戦時中の若者とは違った意味での理不尽さや無常感も感じているだろうし、希望も絶望もあるだろう。
どうしてありもしない若者像を類型化するのかわからない。

また、石坂浩二演じる東大の経済アナリスト?が、病気の母親を顧みず仕事ばかりしている、という描写も、そもそも石坂の内面に入らずに、「責められるべき無感覚さ」の象徴としてしか描かない。

『風のガーデン』で「女たらし」だけど「仕事に真剣」で憎めない、生きることに前のめりだが、時に人を傷つけてしまう、という中井貴一の医者を描いた丁寧さを、今回の短いドラマの各人物の設定に生かして欲しかった。

http://www.furanogroup.jp/furanojyuku/index.html
富良野塾起草文にある
「批評と創造はどっちが大事ですか」
「理屈と行動はどっちが大事ですか」
まさに現代の一億総「評論家」時代の現代にぶつけたい言葉であるし、自分自身に問うべき言葉で、素晴らしい理想のある人だと思うが、こんな偉大な人でも、こういう「理屈」だけで作った失敗作も、ときには作ってしまう、という事で勉強になる。

なぜ、こんな作品が出来てしまったのか、どこで間違ってしまったのか、興味深いところである。(

イーストウッドの「グラン・トリノ」がすごくて、このドラマが駄目な理由はなんだろう、もしかして「メッセージ」ありきの芸術作品はおしなべて駄目なのだ、という事なのかもしれない。どうして「人」はこうなのだろうか、どうしてこんな苦悩があるのだろうか、あるいは喜びがあるのだろうか、という「疑問」を呈示する、というのが<偉大な作品>を作る為の王道なんじゃないかな、と思ったりもするのである。


トラックバックさせてもらったブログの作者は「見ないで」語ったというが、それにしては批判が的確である。

http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20100814/1281787112

そもそも倉本聰の世代が「今の世」への批判するなんてそれだけでフザケンナいい気なもんだ、と思う。「今の世」を作ったのは他でもない、オマエラじゃねえか。このコメントのひとごとっぷりを見よ。「この世を作り上げた責任感」みたいなのは皆無にしか読み取れない。勝手に出来上がっちゃいましたってーのが嫌だね。

「今の世」を批判したいのは私もそうだし、「その一部」であることも間違いないので、この批判は耳が痛いが、このドラマが失敗しているのは、まさにそうした「自責」の視点がない為であるし、それがために、「批判される側」の登場人物たちへ全くのシンパシーのある目線を欠いているせいだろう。どんな悪人の登場人物であっても、彼らの「存在理由」を描写しなければドラマに深みは出ない。倉本聰なら当然知っているだろうそんなドラマのイロハを、何故か省略してしまったのは何故だろうか。

このブログの作者さんが言うように、彼らがたまさか生きて「帰国」しても、同じこのヨノナカが出来たに違いないではないか、という指摘は正鵠をついている。だから死んだ彼らと、生き残りの子孫である自分たちが、共にあの戦争のゲンテンに帰って、悩み、再生へのヒントを探す、そういうドラマ構造にして欲しかった。

ま、この手の企画は何度でも出て来るだろうから、もしやるのだったら、もう少し悩んで、よい作品を作って欲しいナ、と一視聴者としては願うのである。

それにしれも、山田太一でも、黒澤明でも、たけしでも、大島渚でも、つまり優れた仕事をする人でも、しばしば失敗作を世に出し、案外知らない振りをしているモノである。だからこそ次の世代のもチャンスがある。がんばりましょう。一視聴者ですが。

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