銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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盗作さわぎについて

   

 ゆうべは、テレビの取材の電話が4本くらい入ってきました。全部は出ていないけど。


 例の盗作さわぎで、コメントしてくれる人を探しているそうです。やれやれ、こんな時の取材じゃなくて、ウチの取材をしてくれりゃいいのに、と一応ぼやいておきます。


 ただ、取材者の一人は、私どもの「そうだったのか通信」も読んで頂いているようで、そういう意味ではよかったかな。。と、ここまでは自分中心的コメント。


 取材については、「コメントできるような人は思い当たりません。」例の作家さんについては「作品を見たことありません。ですのでわかりません。」などと答えておきました。


 しかし、このブログの「ネタ」として採り上げてみようと思い立ち、例の話題になっている「盗作」の「絵」を、ネットで検索してみたところ、うーん、ありましたねえ。確かにまあ、全く同じモチーフ。これじゃあ騒ぎになっても仕方ないか。


 ただ、あくまで一般論でいえば、人間のあらゆる所業は「マネ」の連続。オギャアと生まれて、まず最初に覚える「言語」は、周りの人から「マネ」たもの。だから人のやることを真似ることと、「盗む」事の本質的違いを考えておかなきゃいけないと思います。


 たとえば仕事も先輩の仕事ぶりを「盗め」なんてよくいうでしょう。まったくの自分のオリジナルの仕事や作品なんてない、ともいえますね。


 そもそも、「近代的自我」とか「個人」という「考え方」が発生する以前は、「盗作」とかそうでない、なんて考え方自体なかった筈。日本では、江戸時代くらいまではそうだったのじゃないでしょうか。「贋作」か「真筆」かという違いは、この頃からあったが、「盗作」は、他人の意匠を自分の「サイン(落款)」を押して自作と主張することで、そのこと自体は特別目くじら立てる人はいなかったんじゃないか(間違っていたら教えて下さい)。


 だから、以前同じようにあったと聞いている盗作さわぎ(このときは写真のモチーフを盗んだと言われた)や、昨年の日経新聞の連載の挿絵の盗作指摘など起きると、「近代という時代は面倒な時代だな」とも思います。オリジナル云々の抑圧もそうだし、「性」に対するおおらかさの基準というものも日本では近代以降きつくなって(現代の実態は混沌状態だけど)、「個」というものがコチコチの時代だな、と思います。


 逆に、今回の「事件」のように、イタリアの作家さんのモチーフを無断でとってきて、安易にコピーした、という「コソコソ」ぶりも、こういう近代の面倒くささの中で出てきたパーソナリティですね。


 どうせマネをするなら、誰でも知っている「モナリザ」でも「洛中洛外図」でも、光琳宗達の「風神雷神」でも、あからさまにコピーしてしまえば、いいのになあ、と思います。そこに「敬意」と「批評」があれば、それは「作品」として新たな「敬意」を受ける価値が出るから。(ちょっと関係ないけど、会田誠氏が「郁夫」というサインを書いた平山先生風の作品を出した例なんて面白い。ある種のリスペクトとパロディがないまぜになっている。勿論会田氏はイマノトコロ権威とは無縁だから、それで騒ぐような無粋な人はいないけど。)


 ただ、古典はともかく、以前映画か何かで、他の作品への「オマージュ」(敬意を表した引用)として撮影モチーフを借りた作品(作品名忘れました)が、借りられた本人から迷惑がられた例もあって、やっぱり「近代」の洗礼を受けた同士の「引用」や「模倣」は、慎重にしなければいけませんね。


 ところで、贋作か真筆かを見分けるときに聞くキーワードの一つに「清潔さ」というものがあります。例外もありますが、田能村竹田にしても崋山でも応挙でも、「真筆」と呼ばれるものには得も言われぬ「清潔さ」があるのですね。精神の高貴さといいますか。まあ聞いた風なこと言ってますが。逆に言えば「清潔」なものを、後の人が「真筆」という表現をしている、と言ってもいいかもしれない。だから作品の本質は、盗作とオリジナル、贋作とオリジナル、という括りでなくて、「清潔さ」なのかもしれませんね。そこの本質はどうなんだ、美術としてホンマに面白いのか、という議論をした方が面白いかもしれません。


 この件については、興味なかったのだけど本当のこというと。なんか電話が刺激になって書いてしまいました。

 - 世間の出来事, 愚痴

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