銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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リアルのゆくえ

   

「リアルのゆくえ」展を現在、碧南市藤井達吉現代美術館でやっている。そのことを受けてなのか、昨日、NHK日曜美術館でこの展覧会をめぐる「写実」についての特集が再放送されていた。

この展覧会は、残念ながらそもそも企画したと思われる土方館長代理率いる平塚市美術館での展示にはいけず、足利で見た。来年展示を予定している原崇浩さんとの会話に登場した水野暁さんの浅間山の大きな作品が気になったのがキッカケだった。

「写実」は最近ブームと言われるが、本当にブームなのか、よくわらからない。なぜなら、そもそも「写実」とは何か、という論点が抜けて、「写真のような絵画」が売れる、という現実が先行しているからだ。

この「リアルのゆくえ」展の優れたところは、「写実」とは何であるのか、もっといえば絵画を描く、ということの意味は何であるのか、を問う内容になっているからだ。しかも、明治以来の日本美術が、ずっと形を変えて「写実」に向き合ってきたことを想起させてくれるところだ。高橋由一、五姓田義松、高島野十郎。。。

NHK番組の流れを見ていると、「写実」とは、描かれるそのものの<内面(本質)>を描くことだ、と多くの人が考えていることが見えてくる。

そこで少し疑問が浮かぶ。テレビの鑑定番組でも「対象の表面でなく、内面性まで描ききっているんですね」なんて、ちょっと褒めようと思うとすぐ口にするが、そういう安易に触れる「内面」ってなんだと。内面なんて、見えるんですか。「表層批評宣言」という本を書いた蓮實重彦は、映画の表現に、実は現れているのはモノとその動きだけだ、そこをきちんとみない批評は映画そのものを見ていないのではないか、と言った。

岸田劉生以来の内面・内面のオンパレードに、いささか皮肉も浮かぶ。「それでも内面は見えないでしょう。見えるのは外面でしょう。」諏訪敦さんの「どうせ何も見えない」ではないけれど。
さて、そういう反発も、それこそ「内面」にいだきつつ、番組を見る。
水野さんの先輩である磯江さんは言ったという。<物の形を簡単に決めるな。本質を感じてから描け。>

この言葉の大事なところは、内面を描け、なんて事を言っていないことだ。「形を簡単に決めるな」。どう言ったって、絵描きは「形」を描くのだ。内面だけ描きたかったら、ロスコのように四角形でも描いていればいいではないか。

写実とは何か、という問いより何より、大事なことは結局、絵画作品がどんな球を投げてきて、どう心が感応するかだ。アントニオ・ロペスという人の絵画を知らなかった10年ほど前、知らずに画集を手にして、何か重い重いズシンと来る直球を受け取った気がした。映画好きとしては見て置かなければいけなかったビクトル・エリセ「マルメロの陽光」を若い時代に見て置かなかった「罰」としてロペスの名前を知らなかったわけで、その御蔭で「写実」の世界の重要さに気づくのが遅れた自分であったが、彼の作品は、一つ一つのモチーフにも中身にも研ぎ澄まされた感覚があって圧倒された。

水野さんの数年かけてひとつの作品を描くスタイルも、多分ロペスに影響を受けていると思う。

水野さんがテレビで言ったことにもうひとつ印象に残る言葉があった。「困るということは限界を超えている瞬間である」。そうか、困るということはいい事なんだな。

もし写実が「ブーム」であるとしたら、「ブーム」は去りゆく運命にある。ブーム=流行とはそういうものだ。そうした一過性の事を乗り越えていかなければならないのが私達の人生だ。百年後の人にもズシンと届く球を投げられるのか。絵描きたちにも、わたしたち画商にも、その問いが一番重い。

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