「美人画」特集:池永康晟が切り開いた美人画の新しい世界(芸術新潮2020年3月号より)
池永康晟と秋華洞は、「美人画」というものの復権を目指してこの10年あまりを歩んできました。
美人画、という言葉、あるいはジャンルは極めて通俗的なものではありますが、『「美人画」の復権(リターンズ)』という狙いの中には、実は世界と日本の戦後美術から失われた「人物画」の歴史、あるいは美術の世界が「ひと」への興味を失ったかにみえるツマラナサを挽回して、一種の「人間主義」をやってみようぜ、という<気分>が込められています。
といっても、なんといいますか戦後文学的な、あるいはマスコミ美談的なヒューマニズムでは必ずしもなくてですね、ニンゲンって面白いじゃん、そうゆうの映画とかドラマだけに丸投げするのもツマンナクないかね?人間臭いこと美術でもやりたいじゃん、ということでもあるのです。。
以上の文責は田中にあるので、池永はまた違った文脈で捉えて入るかと思いますが、「人間」を「絵」は描いてみたいのだ、という原点は近いのではないかな、と思います。そのことをこの芸術新潮3月号を実際に手にしていただいて、読み解き、もしかしたら始まるかもしれない新しい美術の歴史の一ページを、あなたと私どもでともに、めくってみたいのでございます。(田中千秋)
芸術新潮 2020年03月号
芸術新潮3月号ウェブサイトより引用:
最新号PICK UP
美人画の過去と現在の比較から見えてくるもの
「美人画 past and present」と銘打った今特集には主人公が2人います。
pastの主役は、近代日本画を代表する画家であり、美人画の第一人者として現在にいたるも高い人気を誇る鏑木清方かぶらききよかた。presentの主役は、一目見たら忘れられない独特の絵肌で、近年の美人画ブームを牽引する池永康晟いけながやすなり。
美人画という言葉は、描き手に複雑な思いも抱かせるようです。清方は若き日、自らの作品を「社会画」であると主張していた時期があります。美人画という呼称では、美人の容姿を描くことだけを目的としていると受け取られかねないのを嫌ったのでしょう。なるほど、清方の絵には紛れもなく美人が描かれてはいますが、それにとどまらず、すがすがしい自然の美や、失われてしまったある時代の情緒が色濃く反映していることもたしかです。清方の没後、半世紀近くを閲した現在だからこそ、作品の社会画的な側面がよりはっきりと見えてくるような気がします。
池永もやはり、自分が描いているのは美人画ではなく、本当は人物画なのだと言っています。池永が描く美人は、清方のそれよりもずっと現代的でなまなましいために、現在のところは、より女性美に偏した表現であるように受け取られるに違いありません。しかし、清方の絵の見え方の変化を考え合わせるならば、池永の絵もまた将来、現時点でのそれとは大きく異なる受け取られ方をするのではないか、そんな思いもわいてきます。
清方については、鎌倉市鏑木清方記念美術館の今西彩子さんに、清新な清方論をお寄せいただきました。一方の池永についは、ご本人にみっちりとお話をうかがいました。このロングインタヴュー、現在の社会にあって1人の若者が画家になるとはどういうことかについて、なかなかユニークなビルドゥングスロマンになっています。
彼ら2人の他にも、多くの美人画絵師たちが登場します。美人画というジャンルのありようがシンプルなだけに、過去と現在との対比から見えてくる差異・変容はいっそ鮮やかで、いろいろなことを考えさせられました。その奥行きをたっぷりとお楽しみください。
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