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2011年4月アーカイブ

世の中は地震でタイヘンである。アートフェア東京も4月から7月に延期された。

しかし、しかしそれでも世の中は動く。動かなければいけない。東日本が危機に遭っても、被災していない個人と社会は大いに動き、喜び、楽しんで、納税も寄付もして東北を助けなければいけない。

目の前が暗くなるような出来事が多くても、目を見開いて、前に進まなければいけないのだ。

池永康晟がアートコレクター5月号に登場した。日本画で同じく女性を描く森本純君との対談だ。居酒屋で「対談」したのには居合わせたが、今回は、誌上で「対談」しており、かなり彼らの姿勢の違いが際立っていて興味深い。

それにしても、いつもの池永節が炸裂している。「おんなを描くことは、セックスすることと同じ。」彼がいつも言うことだ。まわりにいる「常識的」な人が「引く」台詞だ。しかし彼は真剣である。おそらく、彼から「おんな」と「描くこと」をとったら、死んでもいいと思っているであろう。いやそうでなくても捨て身の男である。たぶん、いつでも死ぬ覚悟が出来ている。

森本純君は、森本草介先生の息子で、日本画家だが、緻密な風景画と、日本情緒ただよう、甘いテイストの美人画を描く。美人画、という言葉がもしかして陳腐化しているとしたら、この記事のタイトル「おんな絵」はなかなかよい言い方だ。彼が池永へのインタビュアーとしていい役割を演じている。池永はセックスの距離感がいつも頭にあり、絵への間合いも短い。眼を画布にこすりつけるように色を塗り、部分から全体を仕上げる。一方で、森本君は一定の距離を置く事が大事という。

この対象に没入する態度が、最終的に成功するかどうかはわからない。しかし、私たちを独得の官能に誘う事は間違いない。写真にも、従来の絵画にもない、距離と息づかいを感じさせる。

地震は、シンプルな彼のアパートも揺らした。彼は二つのことを思ったという。「締切が延びる」「このまま死んだら木造家屋なので理想の死に方だ」まったく恐くはなかったという。ボクは地震でなくても足音で揺れる彼のアパートに滞在するのが恐かった。ボクには死ぬ覚悟が足りないらしい。彼の思い通りに、アートフェアは延期になり、締切は延びた。死ぬことはかなわず、もう少し丈夫なアパートに越したらしい。

男はみな、好きなおんなの前で涙ぐましい位、純情である。池永はいつもセックスは「いかに許してもらえているか」の試金石だという。みずみずしい考え方である。恋と芸術がひとつであり、その事に命を懸ける池永は男の憧れの生き方であろう。ま、西洋でいえばピカソみたいなもんであろうか。彼の絵を購う人は男も女もその純粋さとエロスの表現が見事に結びついた様に心打たれるのだと思う。

どうして、こんなに女性というのは素晴らしいのだろう。たぶん、人間に残された最後の本能であり、(養老孟司のいう)「自然」だからなのだろう。ときにエキセントリックに思える彼の発言は、エロスの司祭の唱える、マントラなのだ。

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今朝の朝日新聞、NY支局長の山中季広さんの「原子炉『マーク1』米国流に頼らず『凌原発』」という取材コラムが面白い。福島原発の1−4号機の原子炉はいずれもGEのマーク1型なのだが、これらの技術の欠陥を訴えて辞表を出した技術者と、推進する側にたった教授にわざわざ訪ねていって取材している。

このなかで、興味深いのは、根本的な改良を主張する技術者、プライデンボーさんに対してのGE社内の反応が「運転を止めれば重大欠陥とされてしまう、住民を不安にさせる、今後の原発営業ができなくなる」など、たんに会社の都合を先に立てて本質的な安全議論を避けてしまったことだ。こうなると、危機管理の欠如、というのは日本「社会」独得のものではなく、原発やエネルギーなど巨大な利権がからむ事業に根本的にともなう「副作用」である、事がよくわかる。

「公共的利益」を担う「責任」をどのような組織なら担えるのか、これは日本社会独得の議論ではなく、世界共通の悩みなのだということだろう。日本独特の宿痾もあると思うので、二つは分けて考える必要があるだろうけれども。

さて、このコラムの締めくくりは美しい。


[あれから40年、未曽有の原子力災害に遭った日本は原発の未来と

どう向き合ったらよいのか。

米国流の科学万能思想に支えられた老朽原発に頼り続けるのでは報われない。

むしろ、原発をしのぐ技術で世界の先頭に立てないだろうか。

反原発、脱原発というよりむしろ、代替エネルギーで原発を凌駕する

「凌原発」社会を目指したい。

たとえば太陽光発電では福島が世界のトップを走り、波力では宮城が、

地熱では岩手が最先端を行く。

夢見るのは、人間の知恵と力で制御できる安全な発電技術のメッカとして、

東北が立ち上がる姿だ。]


こういう作文ができるところが朝日新聞の記者の良さであろう。この最後の文面の美しさに、共感出来る人は多いと思う。原発は真面目に危険コストを考えたらもう経済的に会わない、と考えるべきではないだろうか。そのうえで、次の議論を考えたい。


それと同じ朝日新聞で、例の「正義哲学」のサンデル教授が重要な事を言っていた。原発について、「賛否両派が相互に敬意を持って、公然と討議ができれば、民主主義は深まる。」

そうだ。大事なのは「敬意」なのだ。日本でもアメリカでもどこの国でも「主張」がちがうと「党派」を作り、お互いの論理の矛盾を突くのみならず、人格攻撃や揚げ足取り、果ては暴力、という事になりやすく、結局は合理的な解を導き出すことを妨げている。

さまざまなことについて「敬意」を失わずに議論することが、もっとも大切なのである。しかるに、この数十年、原発や、軍備など、クリティカルなテーマについては、「派閥」に別れて、派閥間は交流なく、敵視しあうなかで、議論を結局は避けてしまってきた。

サンデルさんが流布させようとしているのは、こうした議論を「敬意」を持ってできる土壌、つまり「哲学」の土壌を「流布」させようとしているのだ。

もうこの方針については100%賛成。もう本当に子供の頃から一番願っていることで、そのためなら死んでもいい。と、個人的には思っている。

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カマトト対カマトト、カマトト風評被害、そうこくらいの無実


野田秀樹は好きである。好き以上にたぶん尊敬しているような気がする。
昔、「夢の遊民社」という劇団を主宰していて、今はノダマップという演劇企画を続けている。かつて、エジンバラ公演、をやったとき、わざわざ家族と行ったほどである。

AERAという雑誌がある。ご存じ、朝日新聞の看板週刊誌。ヌードグラビアがない。真面目、を絵に描いたような雑誌である。一応、女性をターゲットにしているらしい。


AERAもたぶん好きである。尊敬、も少しぐらいはしているかもしれない。

で、野田秀樹がAERAにくだらないエッセイを毎号書いていた。くだらない、というのはけなしているわけではない。褒めている訳でもないが、たぶんののくだらなさを楽しんで欲しい、という野田秀樹の意志で続いたエッセイである。

で、こないだAERAが「放射能が来る」というタイトルの表紙を造り、野田秀樹がエッセイを降板した。こういう非常時にこそ、いたずらに不安をあおるのでなく、過不足のない情報を与えるべきマスコミが売上げ期待のあまり、とんでもない宣伝をしたのが、AERAに対する失望を招いた、ということである。

その判断も悪くはない。ただ、少し違和感が残った。

カマトト、じゃあないの?

AERAがそんな「売らんかな」の雑誌でなく、落ち着いた論評をするいい雑誌だから、自分は箸休めの文章を書いていた、が、こんな詰まらない見識の雑誌とは思わなかった、自分が見る目がなかった、という趣旨のエッセイを書いて降板した。

だが、AERAも商業誌のひとつである。毎号、毎号、時事の下らんダジャレをキャッチコピーに売っている。同じ真面目路線の文春のように女優のグラビアやスキャンダリズムで部数を稼いでいる訳ではないだけで、まあ売らんかな、という記事や編集方針も多々あるであろう。

朝日新聞は、巨大なカマトト会社である。というと、在籍している友人達と週末飲むので気まずいかもしれないが、ま、みんな大人なので、ボクのこんな文章で目くじら立てることはないであろう。

正義公正を標榜しているが、売らなきゃあ食べていけない。多少のスキャンダリズムも必要であろう。しかし、彼らにはプライドがある。自分たちの「正義」に正面切って刃向かわれると、ちょっと、キレる体質を持っている。

でも、そんなことも、世の中の人は知っていて、「暖かく」見守っている。野田秀樹がやめた理由は共感できる部分もあるが、やめる、というのは「自分だけちゃんとしている」というメッセージにもとれて、幾分、こそばゆい。

カマトトとはこういうことである。え、私が産まれたのってお父さんとお母さんがXXしてXXして産まれてきたの?きゃあ溥傑、じゃない不潔、もうお母さんとお話ししない、お父さんは顔も見たくない。私も産まれてこなきゃあ良かった。

人間というのは危ういバランスで出来ている。セックスも、肉欲という身もフタもない欲望と、愛情という「よき」ものとの本音と建て前、が一体となり、どこからどこまでが罪、とかいい、とか言えない。商業活動も同様であり、社会的正義と経済的な利欲が一体となる。バランスを崩しがちだが、生きるというのはそういうバランスの上に立っている。

野田秀樹の今回の選択は「巨大カマトト」対「個性派カマトト」の戦い、みたいに見えて、すこーし違和感が残った。で、AERAは正式に野田秀樹の「質問」に応えていないように見える(どこかにあったら済みません)。カマトトはあくまでもカマトトで行くのであろう。

で、カマトトがボクは嫌いかといえばそんなことはない。朝日新聞と日経しかとっていない。カマトトだって必要なのである。小さな子供に余計なことを教える必要はない。ただ、やはり「自覚」と「バランス」を持ってもらわないと、どうやって子供が出来るか知っている「大人」としては気持ちが悪い。

ところで、大相撲の「八百長疑惑」という一連の「カマトト騒動」の風評被害の犠牲者が、昨日裁判闘争を宣言した荒汐部屋の蒼国来であろう。彼の部屋に練習を見学に行ったことがある。中国から来て、体一つで食べていこう、というハングリー精神で本当に真面目にやってきて、関取になった若者である。親方も奥様も素晴らしい真剣な生き方をしている人だと思う。彼が裁判で戦う、という決意をしたのは、「シロ」である、という事だ。相撲取りは、おそろしく苛烈な稽古を経て、強くなり、上位にいくのである。この「カマトト」ご時世で、八百長をやっていた力士が引退を余儀なくされるのは仕方がないが、カマトト風評被害で、やっていない力士まで引退されては、彼らの数年来の文字通り血のにじむような努力はどうなるのか。あまりに荒っぽい引退勧告である。

「正義」はよいのである。しかし「正義」を振りかざす己の愚かさを知らない者は、まわりを不幸にする。カマトトはほどほどがよい。カマトトの元祖、松田聖子くらいのほどほどさカゲンを、関係者は学んで欲しい。

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昔から女性が好きである。これはいつもブログに書いている。
高校生のとき、自分が感動するのは女性の美しさと映画しかないことに気づいて、
ではそこに人生の情熱をかけるべきである、という事を考えた。

それともうひとつ、皆と力を合わせて、面白いことをしたい、とたぶん生まれた頃から思っている。

しかし、いずれもうまくいかない。映画は才能に欠け、女は思い通りに行かず、「面白いこと」は必ずしも大成功はしていない。

今、美術画廊で美術骨董を売ったり買ったりしているが、この全ての要素が画廊にはある。ウチの取り扱いに女性像が多いのは、、浮世絵も大正時代絵画も、池永・阿部の作品も含めてその意味でもあるし、「女性の魅力」の魅力を共感できる作家やスタッフに支えられてもいる。

映画を撮ろうとはもう思っていないが、会社を運営していくことが、映画作りの冒険と同じと思っている。会社自体を生きた「作品」としたいのだ。

面白いことを皆でやりたい、というのは道半ばであるし、私の意図を皆が理解してくれているかどうかはわからないが、楽しさは苦しさと背中合わせではあるものの、実感している。

さて、ところで、この数年いつも思うのはどうして綺麗な女がみんな結婚しないのか、という事である。たまさか数人の女性に「誰か紹介してくれ」と頼まれたので、考えざるを得なくなった。それぞれ、魅力があると思われる男性を紹介してみたが、どの一組として、うまくいかない。力不足で、申し訳ない。

共通する要素があるのかどうか、わからない。ただ言えることは、都会労働力が殆どになってしまい、会社勤めという形態が主流になった近代社会では、男に自身がない、という事である。近世は、農民であれ、武士であれ、文字通り「力」が男の力であった。女はどう努力したところで、男には勝てない。理屈抜きの自信の源泉を男が持っていた。

しかし、近代社会は、違う。力仕事など、ほとんどない。事務能力や企画力、昔なら商人と官僚だけが求められた能力が、ほぼ全員に求められる。女性と土俵が全く同じである。こうなると、女のほうが強い。女性は子供を産む分、組織での継続性に難があり、ハンデがあるものの、さきほど挙げた映画の例でもわかるとおり、状況を変える野性的カンや、「愛情」の無制限な力、というものは女の方が持っている。アタマもいい。ここでアタマというのはバランスのことである。

女の方が相当な譲歩をして、男に「大丈夫」「ダイジョウブ」と自信をつけさせない事には、恋愛も結婚も立ちゆかないのが、近代社会だ。ボクもいつも奥様をはじめ女性に「ダイジョウブ」といってもらって、やっとこさひいこら生きている体たらくである。

見ていると、「優しい」女で、結婚できていない人はひとりもいない。誤解しないで欲しいが、皆優秀な女性は優しい。それなりに優しいのであるが、残念ながら足りないようである。別に罪はないのだが、現代社会での劣勢に立たされている男を「立たせる」ほどには、たいてい優しくない。別に普通に人として十分だし、私はそれでいいと思うのだが、何故か事実上足りないようである。

ここで結婚できているというところの、「優しい」女とは、全身が優しさのオーラで覆われているような女である。これは獲得しようとして出来るのかどうかはわからない。主として環境に依るのであろう。知り合いの超優秀な女性がいるが、彼女は優しさで全ての発言はくるまれている。そして強い。男も女も、本質的な優しさは、強くないと持てない。

 チャンドラーも、森村誠一も言っている。
http://allabout.co.jp/gm/gc/208191/
(注)森村誠一は言っていないのかもしれないが、昔「野生の証明」という映画のキャッチコピーとしてこの
「男は強くなければ、生きていけない。優しくなければ、生きていく資格がない」というフレーズが使われたのだ。

昨日飲み屋で女同士の会話を聞いていたが、やっぱり結婚相手の年収はある程度なければ、という話が出ていた。

もってのほかである。

今時、年収など求めるのは愚の骨頂である。人間の収入は努力の末、入ってくるかどうか、運が良ければ入ってくるが、運が悪ければ一文無しである。こんかいの津波の被害でわかる。人知を越えたもののなかに、人は生きているのだ。「年収」という考え方は、近代社会が、「サラリーマン」は安定した給与をもらえるし、その給与を軸として人間のランク付けが決まる、という幻想を元にしている。バカバカシイ話である。

仕事は、努力もして、天も味方したときに、はじめて報酬がつかめる。能力があれば年収があがる、というのは右肩上がりの時代に出来た幻想である。今の若い女性は、かなりその事を知っていて、能力があってもうまくいかないオトコノコがいることを知っていると思うが、残念ながら30代以上にはバブル時代の幻想幻影がまだ残っているらしい。ついでにいえば、濡れ手に粟の商売をしている連中は金を持っている。しかし金を稼ぐヤツがシアワセを与えられるヤツかどうかなど、そこらへんの小説や映画を見ればイコールでないことぐらい想像がつくと思うが、なかなか認識できないのかもしれない。

年収は結果である。その人の生きる力そのものに惹かれて結婚するべきであろう。どんなイイオトコでも、交通事故にもあい、鬱病にもなる。その人が半身不随になったら、年収が途絶えたら、保険金が入らなければ、その人を見棄てるのであろうか。そんな考え方をするものは、因果応報、自分も同じ目に遭うのである。「三高」なんていう愚劣な言葉がはやったことがあった。高学歴、高身長、高収入だっけか。女の価値はなんであろう。美しくて、優しくて、頭のいいことだろうか。もう死語だが「三高」などと口にする女は、顔はわからぬが、頭が悪くて、優しくないことは自明であろう。美しさを磨くことだけに余念がなく、それを失えば捨てられる恐怖に直面する。なんとも不安定な人生である。女は早晩、若さを失うのである。覚悟が必要である。

私の尊敬する女性美術商がいるが、彼女は「旦那を食わせていくぐらいの気持ちじゃなくちゃ今時結婚しちゃダメですよ」と気丈なことを言う。かっこいいねえ。たぶん、彼女は旦那の「年収」とか「世間体」でなく、男としての魅力を買って結婚したのであろう。あるいはできちゃった婚かもしれないが。

それと、私があまり賛成できないのは「同棲」である。いわゆる「お試し期間」である。まあねえ、「お試し期間」は、恋愛中でいいんでないの、という気がする。何故か私の周囲の「同棲」組はたいていうまくいかなくなる。

私が思うに、覚悟が足りないのである。結婚というのは、断言しても良いが、必ずうまくいかない。お互いの育った家庭が違うので、かならず意見の相違が出る。「うまくいかなかったら別れよう」という姿勢では、いつまでたっても夫婦にはなれない。どこかで腹をくくって、どんなに阿呆でも一緒にやろう、という「初心」が欠かせない。そのうえで、喧嘩もしまくって夫婦になるのであろう。単純にセックスがしまくりたいのなら、コストは多少かかるがラブホテルにでもいけばよろしい。仕事でもそうである。苦しくてもやり続けよう、という気持ちのないものに幸運の女神は微笑まない。

さて、男のほうも考えなければいけない。なんで結婚しないのか。なんでなんですか?女性は、いいですよ。毎日一緒に居たいと思いませんか?仕事より、大事ですよ。

アダルトビデオも風俗産業も発達した現在、素人とつきあうのは面倒くさいのだろうか。責任など、とりたくないのであろうか。AVであんなに綺麗な娘のセックスを見られるのであれば、あえて現実の普通の女と面倒くさい事をしたくない、という事なのであろうか。

男は、死にそうになるとセックスがしたくなる。肉体労働や、極限の仕事が今は少なくなりすぎて、性欲が弱くなってきているような気がする。徴兵制を復活するか、無理にでも劣悪な肉体労働をすることで、結婚への意欲が高まる気がする。もう少し幸せな女性の顔を増やすためには、男たちは何をするべきなのだろうか。
 



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WOWOWで放映したのを録画して、見た。映画、「息もできない」。韓国映画である。

 低予算ながら、完璧な映画だ。主人公は暴力を仕事としているが、彼にとって暴力とは言葉以上のコミュニケーションとなっている。「ありがとう」「おはよう」「さようなら」全て言葉の代わりに、相手の顔を、はたくのである。
 
 徹頭徹尾、暴力映画で、監督・脚本・主演・制作を監督自身が演じている。主人公は徹底して無表情で、何を考えているかわからず、身勝手で、破滅的で、すこし優しい。その意味では、北野武の世界とアナロジー(近い)を感じさせる。
 
 しかし、ハッキリした違いがある。たけしのそれは娯楽の「要素」としての暴力描写だ。サングラスをつけて、銃をぶっ放すと、かっこいい、という動機付けを感じさせる。だが、『息もできない』では違う。韓国の社会底辺に抜きがたくある弱者の弱者による暴力、あるいはドメスティックバイオレンスの実像と哀しさが心の底にひたひたと迫ってくる。出て来る登場人物が全て暴力で人生を壊され、出て行こうとあえぐが、誰一人うまくいかず、また自分も暴力の連鎖にはまっていく。主人公たちはそこである種の冒険を演じて、その結果の奇跡と悲劇が起こるのが、この映画のファンタジーであり、「祈り」となっている。
 
 これほど、何度思い出しても、涙が出て来る映画は珍しい。イーストウッドの映画も、思い出すと悲しくなる映画があるが、もっと足下の手触りをもって、人間の生きることの哀しさと惨めさ、弱さを酷薄にさらけだした描写が心に痛みとして残る。

 どうして、人は弱いのだろう。弱いともっと弱いものをいじめて、まわりをダメにしていき、自分も墜ちていく。その哀しみが、叫びのように、前編を貫く。
 この映画では、勇気のあるのは、やはり女である。主人公の姉の母性的で一貫した愛情と、ひとりの同じく暴力に人生をねじまげられた女子高生との出会いで、主人公は自分の心を、一瞬、開くことになる。
 
 ヤン・イクチュン監督はこれが長編第一作だそうである。その前は自主映画だったのだろうか?しかし映画文法は完璧である。着実な力を持った人だ。この映画を作るために家を売ったという。映画を作る情熱は、命がけでなければ意味がないので、これは当然の気構えではあるが、本当に尊敬に値する。出て来る俳優たちも、撮影も照明もすばらしい。これからが楽しみである。

 彼のような情熱を映画に捧げられる人は世界に少ないし、同じ情熱を美術・工芸に注げる人もやはり多くはないであろう。しかし確実にいたし、今も居る。

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